2008/05/14 (Wed)
国民感情に従って被告人を裁くこと
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刑罰の厳罰化が確実に進んでいるのを実務家としてひしひしと感じている。この動きは、今まで十分配慮をされてこなかった被害者の方々が被害感情を訴えて社会に働きかけをしてきた影響が大きいと思う。犯罪被害者保護の集会などに参加したことがあるが、確かにこれまで犯罪被害者の保護は不十分過ぎたと言える。無差別殺人の被害者に対する被害補償も十分ではなかった。日本はそれまで犯罪被害者に冷たい国だったと言えるかもしれない。もしかしたら、安全な国で自分が犯罪に巻き込まれることはないという思いが市民にあったのかもしれない。
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しかし、ここ数年、被害者保護のムードが一気に高まり、今や被害者は刑事裁判に参加できるようにまでなった。そして、さらに、これから刑事裁判は、国が処罰をするという意味よりも、個人対個人、敵討ち、応報という場面になっていくだろうと思う。目には目をというハムラビ法典の時代に戻った感がある。これは、日本の安全神話が崩れて、誰もが自分も犯罪被害に遭うかもしれないという意識が市民の共通意識になってしまったからかもしれない。
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もしかしたら、国民のムードが盛り上がると熱病にかかったように一気にその方向に振れるというのが日本の特徴かもしれない。
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さらに裁判員制度の実施を前に、刑事裁判に対する関心が一気に高まってきた。マスコミも刑事裁判を大々的に取り上げるようになり、一つの裁判が劇場のように国民衆知の中で進められるようなってきた。
このような流れを受けて、国民感情を直裁に反映させるような判決が目立つようになってきた。交通事故の量刑もその一つだ。故意犯ではなく、過失犯だが、その量刑は現在極めて重い。裁判官とて、国民の感情を無視しては判決や量刑を下すのが極めて困難な時代が来ている。もはや刑罰とは教育でも何でもない。因果応報にしかすぎないと理解されている感がある。
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被害者と加害者、そこには相互互換性はないと考えている方々が多い。絶対自分は犯罪者の側には回らないという確信がある人が多いだろう。だが、刑事事件の被告人にはそう思っていた方々が非常に多いのも事実だ。
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刑事処罰の厳罰化にともない、無罪を争うことはますます困難になってきた。無罪を争って、受け入れられなかったら、有罪を認めた場合以上に厳しい罰が待っている。だから、無罪を争うなどよっぽどのことではできない。えん罪はどんどん生まれていく素地が作られていく。
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どうして犯罪が起きるのか、その原因を探って、その原因を除去することが本当は一番必要だ。応報で刑務所に入れても、再犯率が高くては、数年後にはまた 犯罪が繰り返されることになる。刑罰をいくら重くしても犯罪は減らない。犯罪をなくすためにはどうしたらいいのか。刑罰をどんどん重くすることが最も有効 な手段なのだろうか。






