一月一言・・・映画『砂の器』と、法律における「背景」
風景が語るもの――映画『砂の器』と、法律における「背景」
映画**砂の器**を初めて観たのは、大学生の頃でした。
今はもう存在しない、札幌駅南口から北口へ抜ける地下通路にあった映画館、テアトル「ポー」。封切り料金の半額ほどで観られることもあり、館内は満員で、私は人生で初めて立ち見で映画を観ました。身体は疲れているのに、目だけは画面から離れられなかった。その感覚は、今もはっきりと残っています。
「砂の器」といえば、犯罪と宿命を描いた重厚な物語として語られることの多い作品です。しかし、年齢を重ねてから思い返すと、この映画の本当の力は、別のところにあったのではないかと感じるようになりました。
それは、いわゆる**“B班”による背景撮影**の圧倒的な力です。
父と子が歩いた、日本の四季
父と子が歩く、日本各地の風景。
山間の道、川辺、雪の降る村。
春の芽吹き、夏の光、秋の夕暮れ、そして冬の白さ。
それらは物語の合間に、静かに、しかし確実に差し込まれていきます。
この背景描写は、単なる情緒的な映像美ではありません。むしろ、台詞以上に雄弁に、父と子の運命を語っているように思えるのです。
ここで、背景は何も「説明」していません。
ただ、そこに存在しているだけです。
しかし、その存在そのものが、父子の宿命をより深く浮かび上がらせているのです。
違和感さえも、時代の「記録」
学生の頃の私は、物語の筋や犯行のトリックに心を奪われていました。ところが今観返すと、島田陽子さん演じる女性の存在や、彼女が置かれている立場に強い違和感を覚えるようになりました。
我賀英良に都合よく利用され、それでも付き従う姿。今は亡島田陽子さんの存在感が光ります。
一方で、政治家の令嬢という婚約者の前では、まったく異なる力関係が成立している。
けれども、この違和感は作品の価値を下げるものではありません。むしろ逆です。
「砂の器」は、当時の価値観や人間関係を、善悪の評価を挟まず、風景とともにそのまま記録してしまった。その点で、この映画は非常に誠実な作品だと感じます。
背景があるから、行為は理解できる
重要なのは、背景描写があるからこそ、登場人物の行動が理解できるという点です。
もし、父と子の放浪が簡単な説明だけで処理されていたら、観客はここまで深く「運命」を感じ取ることはできなかったでしょう。
そしてこれは、法律の世界でもまったく同じです。
裁判では、「事実が重要だ」「証拠がすべてだ」と言われます。確かにそれは正しい。
しかし、その事実や証拠が、どのような背景の中で生じたのかを理解しなければ、判断は平板になり、ときに不公平なものになります。
同じ行為であっても、
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どのような経緯で起きたのか
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当事者は、どんな人生を歩んできたのか
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他に選択肢は本当にあったのか
それらを知って初めて、行為の意味が立ち上がってくるのです。
法律家の仕事と、B班の仕事
法律家の仕事は、条文を機械的に当てはめることではありません。
依頼者の人生という「背景」を、言葉と構造にして裁判所に示すこと――それが本質です。
この役割は、映画におけるB班の仕事によく似ています。
主役を目立たせるために、黙々と風景を撮り続ける。
その積み重ねが、物語全体の説得力を決定づける。
背景事情を軽視すれば、法律は冷酷になります。
しかし、背景ばかりを語っても、法の判断は成立しません。
必要なのは、その両立です。
法律にも、風景がある
「砂の器」は、犯罪映画であると同時に、背景が人間を形づくるという事実を、四季の移ろいによって語った作品でした。説明はなくとも、観る側は自然と理解してしまう。なぜ彼らが、その道を歩まなければならなかったのかを。
私は今、法律家として、あのB班の映像を思い出します。
そして、こう考えるのです。
法律問題においても、背景を知る努力を怠ってはいけない。
背景の中にこそ、人がそうせざるを得なかった理由がある。
テアトルポーで立ち見をしながら感じた、あの圧倒的な余韻。
それは、物語の外側に広がる風景が、静かに語りかけてきたものだったのかもしれません。
法律もまた、風景を持っています。
その風景に目を向けること――それが、公平で、人間的な解決への第一歩なのだと思います。
一月一言 NHK土曜ドラマ「男たちの旅路」から考える法律手続
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正面から語るということ
NHKの土曜ドラマ 男たちの旅路 は、何度再放送を観ても心に残る作品です。
鶴田浩二演じる主人公のもとに、水谷豊、森田健作、桃井かおり、柴俊夫ら若者たちが集い、警備会社のガードマンという仕事を通じて、本音と本音をぶつけ合っていきます。登場人物たちは決して器用ではありません。
しかし、不器用だからこそ、逃げずに相手と向き合い、言葉を尽くそうとします。
その姿は、今の時代だからこそ、強く胸に迫ってきます。「言わない」か「言い過ぎる」かの社会
現代社会では、意見の対立そのものは珍しくありません。
ただ、その多くは、相手を前にした対話ではなく、SNSなどの間接的な場で表明されます。画面の向こうでは強い言葉を使えても、本人を前にすると何も言えない。
あるいは、感情が先に立ち、必要以上に激しい言葉になってしまう。
その結果、「何も言わない」か「言い過ぎる」か、極端な選択になりがちです。「男たちの旅路」が描く世界は、その正反対にあります。
逃げ場のない場所での対話
ドラマの中では、同じ現場で働き、同じ時間を共有する中で、価値観の違いが必ず表に出ます。
不満があれば口に出す。
反論されれば、さらに言葉を探す。沈黙や陰口では、その場は通り過ぎられません。
だからこそ、言葉には重みが生まれ、対話は簡単ではなくなります。
この「正面から語り合う」姿勢こそが、この作品の本質だと感じています。裁判という対話の場
私は弁護士として、裁判の場に日々立ち会っています。
裁判もまた、「正面から語ること」を求められる場所です。裁判では、自分の考えを整理し、言葉として相手に示さなければなりません。
同時に、相手の主張を正面から受け止め、その意味を理解する必要があります。
これは決して簡単なことではありません。弁護士の役割は、依頼者の感情をそのままぶつけることではありません。
お気持ちを丁寧に整理し、法的な「主張」として言葉にすること。
そして、相手の主張を冷静に読み解き、どこで歩み寄り、どこで線を引くのかを一緒に考えることです。言葉の品格が問われる時代に
近年、裁判書類の中にも、感情的で攻撃的な表現が目立つことがあります。
まるでSNSの延長のような言葉遣いを見ると、強い違和感を覚えます。裁判は、叫び合う場ではありません。
対立を整理し、社会としての答えを導くための制度です。
そのためには、冷静さと、相手への敬意、そして言葉の品格が欠かせません。今も問いかけ続けるドラマ
「男たちの旅路」は、決して古い時代の熱血ドラマではありません。
正面から語ることの難しさと、その尊さを、今もなお私たちに問いかけ続けています。だからこそ、再放送のたびに、つい見入ってしまうのだと思います。
ゴダイゴの ミッキー吉野 による音楽も、この作品の空気を静かに、深く支えています。
一月一言 「患者の権利を知って自分と家族を護る。」〜違和感を大切に〜
患者の権利を知って、自分や家族を守りませんか。
「先生にお任せします。」は見直しを
病院で医師から説明を受けたとき、
「先生にお任せします」そう言ってしまうことはありませんか。
日本では、特に北海道では、医師を信頼し、判断を委ねることが良いことだと考えられてきたように思えます。
けれども、すべてをお任せにしてしまうことが、必ずしも患者さん自身を守るとは限りません。実は、患者さんには、これから受ける医療についても、すでに受けた医療についても、医師に説明を求める権利があります。これは「自己決定権」と呼ばれるもので、「自分の人生や身体について、自分で決める権利」です。ですから、遠慮する必要はありません。分からないことは、聞いてもいいのです。
医師に質問することは、失礼ではありません
医師に説明を求めると、「忙しそうだから悪い」「疑っていると思われないだろうか」と不安になる方も多いと思います。でも、質問することは、医師を責めることでも、信頼していないという意味でもありません。自分の身体を大切にしている、当たり前の行動です。どんな治療なのか。ほかに選択肢はあるのか。どんなリスクやメリットがあるのかそれを知ったうえで治療を受けることは、とても大切です。医師の側も、患者ときちんとコミュニケーションをとって、医療行為を患者に理解してもらえれば、後日、誤解に基づく責任追及トラブルなどなくなるはずです。私も、左肩にできた骨棘を切除する手術を受けたりするなど様々な医療を受けていますが、分からないときは遠慮無く医師に説明を求めています。
カルテを見せてもらうこともできます
患者さんは、カルテの開示を求めることもできます。カルテは医師だけのものではなく、患者さん自身のためのものです。「カルテを見せてください」そう言うことは、特別な要求ではありません。治療内容を振り返り、納得するためにも、大切な権利です。実際、医師から嫌われると大変だと考えて、カルテの開示をする事さえ躊躇してしまうという方が多いのは、残念なことです。
家族が病院で亡くなったとき
もし、ご家族が病院で亡くなった場合、遺族として、どのような経過で亡くなったのかについて説明を求めることができます。
「もう終わったことだから」「波風を立てたくないから」と、何も聞かずに終わらせてしまう方も少なくないように思われます。しかし、説明を求めることは、誰かを責めるためだけのものではありません。納得するため、気持ちに区切りをつけるためにも、大切なことです。経過が予想されていなかったものであれば、医療法に基づき、医療機関は原因を調べることが求められます。患者さんや遺族が直接「調査しなさい」と命じることはできませんが、調査を求め、促すことはできます。
北海道で感じる「お任せ診療」の影
北海道では、医療法上は調査が必要なケースでも、調査が行われていないことが少なくないと言われています。実際に相談を受けていても、そのように感じることがあります。患者さんの権利自体は、法律や裁判例でしっかり認められています。それが活かされていないのは、患者の側に、医療は医師に「お任せするのが当たり前」という意識が強いからかもしれません。自己決定するということは、自分の選択結果を自分の責任として受け入れるという側面があるのは確かです。だから、もしかしたら、それから逃げたくなってお任せ医療になっているのかも知れません。医師から説明を受けても結局患者は医師の意見に従うものだから、説明義務違反による損害を賠償することは難しいと明言する方もいますが、とんでもないことだと思っています。患者には自己決定権があります。それを無視した論理は不可解です。
患者が関わることで防げる事故もあります
医療事故は、医師だけの問題ではありません。患者さんが医療に関心を持つことで、防げる事故もたくさんあります。「いつもと違う薬が出ている」「説明と違うことが行われている気がする」そんな小さな気づきが、事故を防ぐこともあります。患者の取り違えや、手術部位の取り違えは患者の協力で防げる部分が多いとも考えられています。
「何かがおかしい」と感じたら
事故が起きても、医療機関は、何事もなかったように振る舞うことが少なくありません。そのため、事故に気づかずに終わったり、
モヤモヤしたまま言い出せないまま終わってしまうことがあります。「何かおかしい」そう感じた直感を、大切にしてください。まずは、冷静に医師に説明を求める。必要であれば、原因を調べてもらうようお願いしてみる。それでも納得できなければ、弁護士など専門家に相談する。それは、決して大げさな行動ではありません。自分と家族を守るための、正当な行動です。患者の権利を知ることは、争うためではありません。後悔しないために、静かに自分を守るための知識です。
「患者自身やその家族」のためではなく、他の患者さんを救う道
医療事故訴訟によって、被害回復をすることは、患者自身や患者家族にとってとても大切ですが、その病院に通われている多くの患者さんの達の生命や身体を救うことになると思います。また、医療機関にとっても、責任が認められる、認められないとは無関係に、患者が医療が原因で死亡したり、大きな後遺障害を負ったとき、真摯に原因を究明して、再発を防止するということが一番大切なはずです。一月一言 テレビ映画「タイムトンネル」から考える法律問題
- 小学校高学年の頃、アメリカのテレビ番組「トニーとダグのタイムトンネル」を、一生懸命見ていました。この作品がアメリカで制作・放映されたのは1966年、日本で放映が始まったのは1967年です。今から半世紀以上も前のテレビ番組ですが、その印象はいまなお鮮明に残っています。
- 当時は、今のような録画機器も配信サービスもありません。見逃したら、基本的に次はない。だから外出先から帰ると、決まった時間にテレビの前に座り込み、まさに“かじりつくように”画面を見つめていました。同じような記憶を持つ方は、決して少なくないと思います。
- 「タイムトンネル」は、アメリカではABC放送網で放映され、当時としては大掛かりなセットと映像効果を用いたSFドラマでした。1960年代のアメリカは、冷戦の只中であり、宇宙開発競争が激化し、科学技術への期待と不安が同時に高まっていた時代です。そうした空気の中で、「時間を超える」というテーマは、多くの視聴者の関心を強く引きつけました。実際、放映当初の人気は高く、歴史上の人物や事件を次々と題材にする構成は、毎週のように話題を呼びました。テレビドラマでありながら、ショーとしての面白さと、知的好奇心を刺激する要素を兼ね備えていた点が評価されていたのです。日本での人気も、決して小さなものではありませんでした。
- 吹き替えによる放映でしたが、当時の日本の子どもたちにとって、「世界史」を映像で体験できる番組は極めて貴重でした。リンカーン、ナポレオン、第一次世界大戦、古代文明――教科書では理解しきれない世界史の出来事が、物語として目の前に現れたのです。
- トニーとダグは、謎の装置「タイムトンネル」によって、過去や未来の歴史的事件の真っただ中へ放り込まれます。行き先は選べず、戻る時代もわからない。彼らが立たされるのは、いつも人類史の転換点でした。この設定自体が、1960年代という時代を考えれば、きわめて先進的だったと言えるでしょう。
- この番組は、単なるSF娯楽にとどまりませんでした。 教科書では数行で済まされる出来事が、実在の人物や市井の人間の恐怖や混乱を伴って描かれる。だからこそ、歴史が「年号の暗記」ではなく、「人間の選択と結果の積み重ね」であることを、自然と学ばせてくれたのだと思います。中でも忘れられないのが、リンカーン暗殺とタイタニック号遭難です。トニーとダグは、いずれも結末を知っています。リンカーンが暗殺されることを。タイタニック号が氷山に衝突し、多くの命が失われることを。それでも、彼らはその歴史を止めることができませんでした。警告はしました。必死に訴えもしました。しかし、歴史の大きな流れは変わらない。ほんの少しの判断の遅れ、慢心、前例への過信が、取り返しのつかない結果を生んでいく。その無力さを、子ども心に強く感じた記憶があります。
- この「止められなかった」という構造こそが、「タイムトンネル」を特別な作品にしています。その後、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に代表されるように、タイムマシンを題材にした映画は、ハリウッドで繰り返し作られました。そこでは、過去に戻れば未来を変えられるという爽快で希望に満ちた構図が描かれます。「人生はやり直せる」というメッセージは、多くの人を勇気づけました。
- しかし、「タイムトンネル」は違いました。トニーとダグは、原則として歴史を変えることができません。未来を知っていても、結末は回避できない。ただその渦中で、目の前の誰かを救うこと、被害を少しでも小さくすることしか許されていなかった。この点で、この番組はきわめて現実的で、思想的にも非常に先進的だったと言えます。今あらためて振り返ると、トニーとダグは「歴史を救う英雄」ではありません。むしろ彼らは、「未来を知っていながら、間に合わなかった人間」の象徴だったように思います。
- この構図は、法律相談の現場で、何度も何度も目にします。相続手続きを長年放置した結果、相続人同士の関係が修復不能になってしまったケース。離婚後の財産分与や年金分割を先送りにしたことで、後になって大きな不利益を被るケース。不動産の名義変更を怠ったまま、次の世代に重い問題を残してしまうケース。
- 「問題があることは分かっていました」 「いずれやらなければと思っていました」 「でも、まだ大丈夫だと思っていました」
- 危険は見えていた。警告もあった。それでも「今回は大丈夫だろう」と判断され、結果として悲劇が起きたのです。
- 法律は、起きてしまった出来事をなかったことにはできません。リンカーン暗殺を止められなかったように、事故や対立を「なかった歴史」に書き換えることはできない。しかし、被害の広がり方や、その後の人生の重さは変えられる。それが法律の役割です。タイムトンネルがもし現実にあれば、私たちは過去に戻って選択をやり直せるかもしれません。ですが、現実にはそんな装置は存在しません。だからこそ、契約書があり、期限があり、専門家への相談がある。法律は、巻き戻しのできない人生に対する、一つの予防装置なのです。
- 子どもの頃、トニーとダグが「あと少し早ければ救えたかもしれない」場面に、私たちは悔しさを覚えながら見ていました。大人になった今、その立場に自分自身が立っていないか。そう問い直すことは、決して無駄ではありません。タイムトンネルは現実にはありません。しかし、「今」という時間だけは、誰にでも確かに与えられています。問題がまだ小さいうちに立ち止まり、考え、動く。その選択が、未来を大きく変えることもあるのです。
2026年 謹賀新年
- 謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
- 旧年中は、弁護士法人高橋智法律事務所に格別のご厚情を賜り、心より御礼申し上げます。
- 昨年も、相続・離婚・交通事故・医療・不動産など、多岐にわたるご相談をお受けし、日々、依頼者の皆様の人生や事業の節目に向き合う一年となりました。法的紛争の背景には、必ずそれぞれの事情や思いがあり、単なる「法的正解」だけでは解決できない場面も少なくありません。当事務所は、法の専門家としての責務を果たすと同時に、依頼者の声に丁寧に耳を傾け、納得と安心につながる解決を目指してまいりました。
- 社会情勢が大きく変化し、価値観や常識が揺れ動く時代において、法律の役割はますます重要性を増しています。一方で、法律が人を縛るものではなく、人を支え、守るものであることを、私たちは常に忘れてはならないと考えております。本年も、地域に根ざした法律事務所として、札幌・北海道の皆様にとって「まず相談してみよう」と思っていただける存在であり続けることを目標に、誠実に業務に取り組んでまいります。
- 本年が皆様にとって健やかで実り多い一年となりますことを、心よりお祈り申し上げます。
本年も変わらぬご指導、ご厚誼を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。 - 令和8年 元旦 弁護士 高橋 智
2025年もありがとうございました。・・・以前のお客様からのご紹介事件も多いです。
- 本年もありがとうございました。
- 本件を振り返ると、医療事故の相談が相変わらず多かった印象です。担当させていただいている医療訴訟、医療調停の数も15件前後になりました。私の事務所には、様々なルートでご依頼になる方がいますが、セカンドオピニオン的なご相談も増えてきています。皆さん、いろいろ慎重にどの弁護士に相談するか検討されている様子がうかがわれますが、一番大事なのは、きちんと依頼しようとする弁護士と面談して、当該弁護士の考え方を理解すると言うことだと思います。数名の弁護士に相談してから選ぶという方もいらっしゃいます。
- 不動産関係のご相談も増えていますね。賃貸借関係の解除や明渡し請求等です。
- 離婚や相続問題、交通事故もコンスタントにご相談がございます。
- 弁護士ドットコムをみて、依頼を検討して下る方、このWebをみて、検討して下さる方も多いですが、一番ありがたいのは、以前の依頼者の方からのご相談ですね。依頼者の方が、頼んで良かったと思っていただけるからこそのご紹介だと思うからです。
一月一言 映画『ソイレント・グリーン』(1973年)からインフォームドコンセントを考える。
映画『ソイレント・グリーン』(1973年)は、2022年のニューヨークを舞台に、人口爆発と環境破壊により人々が深刻な食糧不足に陥った社会を描くSF作品です。物語の終盤で明かされる衝撃的な真実は有名です。この映画が本当に問いかけているのは、「人は、知らされないまま選ばされることの恐ろしさにあるのかもしれません。当時、中学三年生頃だったのですが、映画館で観て、大きなショックを受けたことを覚えています。特に、老人が安楽死を決意した時、1人だけの劇場で、環境破壊前の豊かな自然が映し出された映画をみて死んでいくのは、感慨深かった記憶があります。
医療の現場には「インフォームド・コンセント」という考え方があります。「治療を受けるかどうかは患者本人が決める。しかし、その前提として、医師は治療内容、効果、リスク、代替手段などについて十分に説明しなければならない。」ということです。説明を欠いた同意は、形式的に同意書があったとしても、真の意味での自己決定とは言えないのです。
『ソイレント・グリーン』の社会では、人々は生存のために配給される食品を口にしている。選択の余地はほとんどなく、しかもその食品の「本当の原料」は完全に隠蔽されている。これは、まさにインフォームド・コンセントが完全に否定された世界です。重要なのは、ここに暴力的な強制はほとんど登場しないという点です。人々は反抗せず、制度は粛々と機能している。つまり問題は、「選ばされた」ことではなく、「真実を知らされなかった」ことにあると思うのです。
ところで、医療におけるインフォームド・コンセントとは、医師がすべてを決め、患者は従うという関係を改めるために導入された考え方です。治療の主体は患者であり、医師は専門的知見に基づいて説明し、選択を支援する立場にあります。治療内容、効果、リスク、代替手段を説明した上で、患者が自ら判断する。これが本来の姿です。
ところが、日本の医療現場では、この原則が形式化している場面を少なからず目にします。説明書に署名はするが、内容は十分に理解していない。質問しそびれたまま、「先生にお任せします」と治療が進んでいく。こうした光景は、決して珍しいものではないと思います。
医療事故訴訟に関わっていると、特に北海道では、そのお任せ傾向が非常に強いと感じられます。一方で、医師側もまた、善意のもとに「一番良い治療」を決めてしまいがちです。忙しい診療現場において、すべてを丁寧に説明し、患者の理解を確認し、迷いに付き合う時間を確保することは容易ではない。結果として、「説明はした」「同意は得た」という形式が優先され、実質的な自己決定が置き去りにされると思うのです。
海外、とりわけ欧米諸国で、治療を受けた方は、患者自身が選択を求められることがいかに多いことかを思い知ると言います。グッドドクターを初めてとするアメリカの医療ドラマを観ていると、とにかく、インフォームドコンセントは徹底されていることが分かります。日本でも制度としてのインフォームド・コンセントは整っている。インフォームド・コンセントとは、「説明を受ける権利」であるというだけではだめで、これを積極的に利用しないと行けません。
一方、インフォームドコンセントは、患者が「自ら選ぶ責任」を引き受けることでもあります。日本には、選ぶ責任を回避しているという面もあるように思えます。選択には不安が伴う。間違えるかもしれない。後悔するかもしれない。それでも、知らされないまま選ばされるよりは、自分で理解し、納得した上で進む方が、人間として健全ではないかと思います。
映画『ソイレント・グリーン』の人々は、生きるための選択をしていたつもりで、実は選ばされていただけだった。その社会は、誰かが悪意をもって作ったというよりも、多くの人が考えることをやめた結果として成立しているとも言えます。今年の事務所営業もあと4日・まさに師走
今年の事務所営業もあと4日になりました。25日クリスマスの木曜日が最終日です。 皆様いかがお過ごしでしょうか。 12月は弁護士にとっての書き入れ時で、この慌ただしさはもう35回近く味わってきました。今年も相変わらず慌ただしいです。 裁判期日もあと3回になりました。弁論準備手続(リアル出頭)医療事故、調停事件(リアル出頭)、Webによる弁論準備です。このほか強制執行の立会出張があります。 年の瀬を迎えてのこの時期、緊急相談が多い時期でもあります。相続・婚姻関係で立て続けに相談がございました。 一年を終えるとどっと疲れが出て寝込むという方々が多いようです。皆様、気温の乱高下が激しいので、ご自愛ください。
※ルーブル美術館にて
一月一言 江波杏子主演の大映映画「女賭博師」シリーズと司法の共通点
江波杏子主演の「女賭博師」シリーズは、私にとって特別な作品です。 シリーズ全作を観ていますが、その原体験はとても幼い頃にさかのぼります。
当時、父の勤めていた国鉄が大映映画のチケットを従業員家族に配ってくれた時代がありました。小学生だった私は、年何回か、家族と一緒に映画館へ行き、座頭市と女賭博師シリーズの二本立てを観ていました。今思えば、子ども向けとは言い難い内容ですが、あの暗い館内の空気、フィルムの匂い、観客の沈黙は、今でも身体の感覚として残っています。
座頭市は言うまでもなく、剣の達人です。理不尽な暴力に対して、圧倒的な武力で立ち向かう。そこにはカタルシスがあります。一方、女賭博師シリーズは、まったく違う戦いを描いていました。
武力では決着をつけない。 命を奪わない。 勝敗は、壺振りや花札によって決まる。
これこそが、女賭博師シリーズの核心です。しかし、この点は驚くほど評価されていません。多くは「任侠もの」「賭博もの」「妖艶な女性像」として語られますが、本質は別にあります。
女賭博師が戦っているのは、暴力の世界に身を置きながら、暴力を使わないという戦略です。
不正や圧力は存在します。命の危険も常にあります。それでも彼女は、刀を抜きません。殴り合いもしない。 勝負の場を、「ルールのあるゲーム」に限定するのです。
壺振りや花札は、単なる遊戯ではありません。 それは、暴力に代わる秩序です。
ルールがあり、勝敗があり、第三者が見て納得できる結論が出る。 負けた者は、少なくともその場では、刃物を抜く正当性を失います。
これは、極めて洗練された「非武力闘争」です。
ここで、私は自分の仕事を思います。 裁判とは、まさにこの非武力闘争そのものです。
本来、人間同士の争いは、力に訴えれば簡単です。怒鳴る、脅す、殴る、排除する。しかし、それを許してしまえば、社会は無限の報復連鎖に入ります。だから人類は、長い時間をかけて知恵を発展させてきました。
暴力を使わずに、決着をつける方法。
その一つの完成形が、裁判だと思います。
裁判では、腕力も恫喝も意味を持ちません。必要なのは、事実、証拠、そして論理です。勝敗は、感情ではなく、ルールによって決まります。この点で、壺振りや花札と本質的に同じ構造をしています。
裁判とは、暴力に訴えずに済ませるための制度なのです。
作中で、もし女賭博師が最初から刀を抜いていたら、物語は成立しません。死人が出て、報復が続き、終わりのない争いになるでしょう。彼女はそれを分かっている。だからこそ、勝負を賭博の場に限定する。
裁判も同じです。 感情をぶつけ合い始めた瞬間に、非武力闘争としての価値を失います。暴力的な言葉や過激な表現に走れば、非武力闘争の場が崩れてしまう。裁判は、剣を振るう場所ではありません。
弁護士は、依頼者の怒りを煽る存在ではありません。 依頼者が刃物を持たずに済むよう、代わりに札を握る存在です。
この視点が失われると、裁判は単なる言葉の暴力になります。最近、準備書面の記載が過激化していることに、私は強い危惧を覚えます。人格攻撃、挑発的表現、相手を黙らせるための言葉。SNSで飛び交っているような言葉が準備書面に発見すると本当に悲しくなってしまいます。裁判は事実、証拠、そして論理のはずです。準備書面に激しい言葉使って何のメリットがあるのか私には全く理解できません。
一月一言・映画「日本沈没」とテレビアニメ「宇宙戦艦ヤマト」と同調圧力
■映画「日本沈没」とテレビアニメ「宇宙戦艦ヤマト」。 これら二つの作品には、日本人にとって非常に示唆的な共通点があります。
それは、「集団の終焉にあたり、全員が同じ運命を選ぶ」という選択肢が、ごく自然なものとして提示され、ほとんど違和感なく受け入れられている点です。
■「日本沈没」では、国土沈没が避けられなくなった局面で、首相が“陰の実力者”を訪ね、「この国が沈むとき、どうすべきか」を問いかけます。その際に示される案の一つが、日本という国家と運命を共にし、日本人全員が国土とともに海に沈むというものです。冷静に考えれば、極端で残酷な選択です。しかし、映画の中では、この案は“狂気”として退けられません。一つの「思想的選択肢」として、静かに語られます。誰も叫ばない。誰も否定しない。その沈黙こそが、この場面の異様さを際立たせています。
■同じ構造は、「宇宙戦艦ヤマト」にも見られます。地球を救う鍵を握るイスカンダル星に到達したヤマトの乗組員たちは、そこで驚くべき事実を知ります。イスカンダルの人々は、スターシアを除き、すでに全員、安楽死を選び、死に絶えていたのです。使命は果たした。だから、これ以上生き続ける必要はない。この選択を、ヤマトの若者たちは深く疑いません。問い詰めません。そして、視聴者である多くの日本人の若者もまた、この設定を強い違和感なく受け止めていたのではないでしょうか。ここに、日本的な思考の特徴がはっきりと表れています。
■これは自己犠牲という美徳の問題にとどまりません。もっと根深い、同調圧力の問題です。同調圧力とは、誰かに強制されるものではありません。命令も、法律も、暴力もいらない。「空気」によって選択肢が一つに収束していく――それが同調圧力の恐ろしさです。日本沈没でも、ヤマトでも、「全員で沈む」「全員で消える」という選択を口にした人物は、他者に強要していません。それにもかかわらず、その案はあたかも“自然な帰結”であるかのように語られます。宇宙戦艦ヤマトの若者たちが、イスカンダルの民の選択に疑問を差し挟まなかったこと。そこに、当時の日本社会の空気が映っていたように思います。「皆が選んだ道なら、それが正しいのだろう」しかし、現実の社会において、その思考は極めて危険です。同調圧力は、人を追い込みます。逃げ道を一つずつ塞ぎ、「他に選択肢はない」と思わせる。■ここで、法律の話になります。法律は、本質的に同調圧力と相性が悪い制度です。なぜなら、法は常にこう問いかけるからです。「あなた個人は、どう考えるのか」「あなたの権利は、どうなっているのか」法は、「みんながそう思っている」という理由を、正当化根拠として採用しません。それどころか、少数者、異論を唱える者、空気に逆らう者を守るために存在しています。しかし、日本社会では、この法の役割が十分に理解されていません。
■裁判手続では、集団の全員が同意をしても、1人の人権を奪えないという鉄則があります。多数決でも奪えない権利が人にはあります。それを護るのが法律だと思っています。民主主義は、多数決主義ではありません。政治的には無力でも、1人でも、巨大な国や市、企業、大病院にさえ、勝つことができる。そこに司法の本質があると思います。

