2026.10.30
勝つことだけが正義なのか ――ソフトバンクの独走と、プロ野球が失いつつあるもの ・・・一月一言
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今年も福岡ソフトバンクホークスが圧倒的な強さを見せ、パ・リーグ3連覇を達成した。 私は長年、プロ野球を楽しみ、地元北海道のファイターズを応援してきた。しかし、最近、プロ野球を見ることが以前ほど楽しくなくなっている。噂によると、来季は、有力選手をトレード、FAで獲得するらしい。その噂が本当だとすると、福岡のファンだけが喜ぶことがずっと続くことが予想される。 「どうせ最後はソフトバンクが勝つのだろう。」「どうせ今年もソフトバンクが勝つのだろう。」 「どうせ来年もソフトバンクが勝つのだろう。」 そう考えると、ペナントレースに対する興味が薄れてしまうのである。 もちろん、強い球団が悪いわけではない。優秀な選手を育成し、適切な補強を行い、勝利を目指すことは、プロスポーツの当然の姿である。 しかし、特定の球団が資金力を背景に有力選手を集め、他球団との差を広げ、その状態が固定化していくとすれば、果たしてそれはプロ野球全体にとって望ましいことなのだろうか。 私が疑問を抱くのは、単にソフトバンクが強すぎるということではない。 一球団の勝利の追求が、球界全体の利益や競争の公正さ、さらには選手たちの将来よりも優先されているのではないか、ということである。
1 V9時代の巨人と現在のソフトバンクは違う
かつて巨人は1965年から1973年まで、9年連続日本一という偉業を達成した。 巨人のV9時代も、圧倒的な一強時代であった。 しかし、現在のソフトバンクと決定的に異なる点がある。 それは、巨人戦が他球団にとっても「ドル箱」であったことである。 巨人が地方球場に来れば観客が集まった。巨人を応援するファンだけではない。巨人を倒すところを見たいという人々も球場に足を運んだ。 テレビの巨人戦は全国的な人気を集め、対戦球団も放映権収入や全国的な知名度という恩恵を受けた。 巨人は自ら勝利を重ねるだけでなく、他球団の経営にも大きく貢献していたのである。 だからこそ、巨人は「球界の盟主」と呼ばれるだけの経済的な実体を持っていた。 翻って、現在のソフトバンクはどうであろうか。 ソフトバンクが強くなることによって、他球団はどれほどの経済的利益を得ているのだろうか。 ビジター球場における集客力も、かつての巨人と同じとはいえない。北海道日本ハムファイターズの方が、ビジターでの平均観客動員数でソフトバンクを上回るという集計もある。 もちろん、ビジターの観客数にはホーム球団のファンも含まれるため、この数字だけで人気の優劣を断定することはできない。 しかし、少なくとも、圧倒的な強さがそのまま他球団の興行上の利益につながるとは限らないのである。 巨人のV9は、他球団にとっても商売になった。現在のソフトバンクの独走は、球界全体に何をもたらしているのだろうか。 この問いは、決して軽視できないと思う。2 ポスティングを認めない球団が、海外から戻る選手を獲得する矛盾
私がソフトバンクの経営姿勢に強い違和感を覚える理由の一つが、ポスティング制度に対する態度である。 ソフトバンクは、自球団の選手について、ポスティング制度による海外移籍を原則として認めない方針を採ってきた。 一方、他球団がポスティングを認めて送り出した選手が、メジャーリーグで十分な結果を残せず日本に戻る際には、その選手を獲得する。 日本ハムから海外に挑戦し、その後ソフトバンクに移籍した上沢直之投手の例は、その象徴である。 確かに、制度上の違反ではない。 しかし、自分の球団からは選手を送り出さず、他球団が選手の希望を尊重して送り出した結果生じた獲得機会は利用する。 これを公平な競争のあり方として、素直に受け入れることができるだろうか。 少なくとも、私には釈然としないものがある。 法律の世界でも、形式的に許される行為であれば、常に社会的に正当な行為と評価されるわけではない。 法令に違反しないことと、信義や公正の観点から是認されることとは、別の問題なのである。 私は、ポスティング移籍後に短期間で帰国する選手について、移籍元球団への補償や優先的な交渉機会を含め、リーグ共通の制度を検討すべきだと考える。3 大量の選手を抱えることは、若者の夢を奪っていないか
もう一つ、私が気になっていることがある。 ソフトバンクは3軍、4軍まで整備し、大勢の育成選手を抱えている。 育成のための施設や指導者に多額の資金を投じ、優秀な選手を発掘すること自体は評価すべきである。 しかし、その一方で、FAによって実績のある選手を獲得し、海外からも選手を獲得し、ドラフトでも有望選手を指名する。 そこに大量の育成選手が加わる。 選手のピラミッドを大きくすれば、確率的には優れた選手が現れる可能性も高くなるであろう。 しかし、プロ野球の一軍で実際に出場できる選手の人数には限界がある。 大量に選手を抱えることによって、その中にいる若い選手たちの出場機会が失われることはないのだろうか。 他球団に入っていれば一軍で活躍できたかもしれない選手が、巨大な組織の中で機会を得られないまま、選手生活を終えることはないのだろうか。 もちろん、育成制度があるからこそプロ入りの機会を得られる若者もいる。大量に選手を抱えること自体が、直ちに不当だというわけではない。 しかし、単に何人の選手を獲得し、何人のスター選手を生み出したかだけではなく、契約した選手たちにどれほど実質的な挑戦の機会を与えたかという視点が必要ではないだろうか。 高校野球では、努力、礼節、仲間との絆、相手を尊重する精神が説かれる。 ところが、プロになった途端、選手は経営上の戦力として扱われ、勝利のために選別され、不要になれば契約を打ち切られる。 プロスポーツがビジネスであることは理解している。 しかし、ビジネスであることは、若者の人生や可能性を軽視してよい理由にはならない。 競争は厳しくてよい。ただし、その競争は公正であり、挑戦する機会はできる限り保障されるべきではないだろうか。4 長いペナントレースほど、資金力と選手層の差が現れる
スポーツの面白さは、勝敗が予測できないところにある。 実力のある者が勝つことは当然である。しかし、必ず実力のある者が勝つのであれば、観戦の魅力は大きく失われる。 試合数が増えれば増えるほど、偶然の要素は小さくなり、実力の差が結果に反映されやすくなる。 卓球は、かつて1ゲーム21点制であったが、2001年に11点制へ変更された。 ゲームを短くすることで、一つひとつの得点の重みが増し、勝負の展開にも変化が生まれた。 バドミントンでも、試合時間や観戦の魅力を考慮した得点制度の改革が進められている。 野球も、ペナントレースの仕組みを見直してよいのではないだろうか。 例えば、前期・後期制である。 実は、パ・リーグは1973年から1982年まで前後期制を採用していた。 1973年には、年間勝率では阪急が上回っていたものの、前期優勝の南海ホークスが優勝決定戦を制してリーグ優勝を果たした。 長いシーズンを通じた実力評価と、短期決戦による勝負の面白さは、必ずしも一致しないのである。 前後期制には、消化試合の問題などの欠点もある。現在のクライマックスシリーズについても、年間を通じて好成績を収めた球団の努力をどう評価するかという問題がある。 それでも、143試合を戦う現在の仕組みが最善であると決めつける必要はない。 前期・後期制の再検討、優勝決定方式の工夫など、より多くの球団が最後まで優勝を争える制度を考えるべき時期に来ていると思う。 強い球団が勝つことを否定するのではない。弱い球団にも勝つ可能性が残されていることが、スポーツの魅力なのである。5 究極の資本主義であるアメリカでも、戦力均衡を重視している
アメリカのプロスポーツは、巨額の資金が動くビジネスである。 しかし、自由競争を重視するアメリカでさえ、スポーツ興行については特別な仕組みを設けている。 NBA、NFL、NHLにはサラリーキャップ制度があり、MLBにもぜいたく税や収益分配、ドラフト制度などがある。 もちろん、MLBにもドジャースやヤンキースなどの資金力の大きな球団が存在し、戦力均衡が十分に実現しているわけではない。 それでも、資金力のある球団が際限なく戦力を集中させることの問題は、制度上の重要な課題として扱われている。 なぜだろうか。 普通の企業であれば、競争相手を圧倒し、市場を支配することが利益につながる場合がある。 しかし、プロスポーツは異なる。 競争相手がいなくなれば、試合そのものが成立しない。 競争相手がいても、その相手に勝つ可能性がほとんどなければ、観客の興味は失われていく。 つまり、プロスポーツにおいて、競争相手は倒すべき存在であると同時に、自分たちの事業を成立させる不可欠な存在なのである。 これは、スポーツビジネスが持つ根本的な特徴である。 だからこそ、一球団の利益の最大化が、必ずしもリーグ全体の利益の最大化につながるとは限らない。6 Bリーグは、戦力均衡を明確な経営目標に掲げている
日本でも、バスケットボールのBリーグは注目すべき改革を進めている。 2026-27シーズンから、B.LEAGUE PREMIERでは選手報酬総額について原則8億円の上限と5億円の下限を設けるサラリーキャップ制度が導入された。 Bリーグの公式資料には、その目的として、接戦を増やし、戦力均衡によって魅力あるリーグを実現することが明記されている。 私は、この考え方に強く共感する。 スポーツの魅力とは、特定のチームが勝ち続けることではない。 どの地域のファンも、自分の地元のチームに優勝の可能性を感じ、勝利を夢見ることができることである。 北海道には、バスケットボールのレバンガ北海道がある。 今後、地元で応援するバスケットボールチームに勝利への期待を持てるのであれば、プロ野球からそちらに関心が移っていくことも十分にあり得る。 それは、決して野球嫌いになったからではない。 勝利を夢見ることのできるスポーツを見たいからである。7 観客動員が増えているからといって、安心してよいのか
2026年の日本プロ野球の公式戦入場者数は、2,717万7,247人となり、3年連続で過去最多を更新した。 確かに、プロ野球の興行は現在、好調である。 しかし、その一方で、野球人口は長期的に減少している。 日本野球協議会の調査でも、学童野球や中学校の軟式野球など、野球を支える裾野の縮小が明らかになっている。 かつて巨人戦は、地上波テレビのゴールデンタイムで全国的に中継されていた。 現在では、野球中継はBS、CS、インターネット配信などに分散し、一般の人々が日常的にプロ野球に接する機会は大きく変化した。 一方、バスケットボールなどの新しいプロスポーツは、その存在感を増している。 野球人口の減少には少子化やスポーツの多様化など、さまざまな原因がある。一球団の独走に原因を求めることはできない。 しかし、だからこそ、プロ野球は今の観客動員数に安住するべきではないと思う。 球場の施設が充実し、飲食やイベントが魅力的になれば、観客は増えるかもしれない。 しかし、球場に人が集まることと、ペナントレースそのものが面白いことは、必ずしも同じではない。 長年野球を楽しんできたファンが、試合の勝敗に興味を失いつつあるとすれば、それは数字には現れにくい危険な兆候ではないだろうか。8 球団経営にも、リーグ全体に対する責任がある
私がソフトバンクの経営姿勢に違和感を覚えるのは、ここに理由がある。 孫正義氏や王貞治氏が、自分たちの球団を世界一強くしたいと考えることは理解できる。 しかし、プロ野球はソフトバンク一球団で成立しているのではない。 日本ハム、西武、楽天、ロッテ、オリックス、そしてセ・リーグの各球団があり、それぞれの球団を応援するファンが存在するからこそ、プロ野球という興行が成立している。 ソフトバンクの経営陣から、球界全体の戦力均衡や、他球団のファンが優勝を夢見る機会を守ろうという姿勢が十分に伝わってこないことに、私は強い違和感を覚える。 もっとも、球団が勝利を追求すること自体を非難するのは適切ではない。現行制度の範囲内で補強することは、球団に認められた経営上の自由でもある。 その一方で、自由には一定の制度的な枠組みが必要である。 法律の世界でも、個々の事業者が自己の利益を追求することは認められるが、それによって競争の公正が損なわれる場合には、一定の規律が必要となる。 プロスポーツでも同様ではないだろうか。 ただし、戦力均衡のための制度が直ちに独占禁止法上要求されるというわけではない。選手の移籍の自由や職業選択の自由との調整も必要である。 求められるのは、勝利を目指す自由を尊重しながら、リーグ全体の公正な競争を維持するための合理的な制度設計である。 サラリーキャップやぜいたく税、ドラフト制度の改革、ポスティング帰国選手の取扱い、育成選手の保有と待遇など、検討すべき課題は多い。 一球団が勝ち続けることを阻止するためではない。 12球団のすべてに、優勝するための現実的な道筋を残すためである。9 ファンが買っているのは、勝利ではなく、勝利を夢見る時間である
プロ野球を応援する者にとって、優勝は特別なものである。 しかし、毎年優勝できなければ、応援する意味がないというわけではない。 今年は負けても、来年は勝てるかもしれない。 若い選手が育ち、チームが強くなり、いつか優勝する日が来るかもしれない。 その希望があるからこそ、ファンは負けても応援を続けるのである。 ところが、資金力による戦力格差が固定化し、毎年同じ球団が優勝すると予想されるようになれば、その希望は次第に失われていく。 もちろん、ソフトバンクの独走がこれからも永続すると決まったわけではない。 しかし、ファンが「どうせ今年も同じ球団が勝つ」と感じるようになっているのであれば、それ自体が問題なのである。 私自身、長く親しんできたプロ野球への関心が、以前より薄れてきていることを残念に感じている。 プロ野球が嫌いになったわけではない。 むしろ、好きだからこそ、今のあり方に失望しているのである。 強い球団を作ることと、魅力あるプロ野球を作ることは、同じではない。 プロ野球が今後も国民的なスポーツであり続けるためには、球団の勝利だけではなく、リーグ全体の競争の公平性、若い選手の挑戦する機会、そして各地域のファンが勝利を夢見ることのできる環境を守る必要があると思う。 ファンが買っているのは、勝利という結果だけではない。勝利を夢見ることのできる時間なのである。 その時間を守ることこそ、プロ野球に携わる人々が負うべき、最も大切な責任ではないだろうか。10 ソフトバンクには、もっと強くなってもらいたい――逆説的な願い
最近の報道では、ソフトバンクが今後もFAやトレード、外国人選手の獲得などによって、さらに有力選手を補強するのではないかと取り沙汰されている。 私は、むしろ大いに結構だと思うようになった。 マチャド、エスピノーザ、床田、森下、坂倉など、獲得可能な有力選手を、できる限りソフトバンクに集めてもらいたい。 そして、他球団が到底太刀打ちできないほどの、圧倒的な戦力を築いてもらいたいのである。 もちろん、これは逆説である。 もはや試合を見る必要さえ感じられないほど強くなってもらいたい。開幕前から優勝が決まっていると思われるほどの戦力を整え、143試合を戦う意味さえ疑問に思われるような状況をつくってもらいたい。 そうなれば、さすがに球界の関係者も、現在の競争のあり方に重大な問題があることを理解するのではないだろうか。 そして、福岡のファンにも、少し考えてもらいたい。 応援する球団が勝つことは、確かに嬉しい。しかし、毎試合勝つのが当たり前で、負けることなどほとんど想像できないとしたら、そこにどれほどの喜びが残るのだろうか。 逆転されるかもしれないという不安もなく、優勝を逃すかもしれないという緊張感もない。安心して試合を見られることは、一見幸せなことかもしれない。 しかし、勝敗にハラハラすることもなく、勝利に心から歓喜することもできなくなる。そのようなスポーツ観戦が、いかに寂しいものであるか。 福岡のファンにも、いつかその寂しさを実感してもらいたいと、皮肉を込めて思うのである。 そして、最近の補強報道を見ていると、私のこの逆説的な願いが、案外現実のものになりそうにも思えてくる。 それを嬉しいと感じる自分がいることに、我ながら苦笑せざるを得ない。 しかし、このような極端な状況にでもならなければ、日本プロ野球は、戦力均衡の重要性に本気で向き合わないのではないか。 本来、ファンが望むべきは、自分の応援する球団だけが勝つことではない。 勝つか負けるかわからないからこそ、試合を見たいと思うのである。優勝できるかもしれないという希望があるからこそ、長いペナントレースを楽しめるのである。 一球団が勝利を独占することはできても、野球の面白さまで独占することはできない。 そして、すべての試合に勝つことが当然になったとき、勝利はもはや喜びではなく、単なる予定された結果になってしまう。 私は、そんなプロ野球を見たいとは思わない。 だからこそ、皮肉にも、ソフトバンクには徹底的に強くなってもらいたいのである。11 スポーツ観戦の醍醐味とは何か――レバンガ北海道の試合を観て
最近、私は地元のプロバスケットボールチーム、レバンガ北海道の試合を観る機会が増えている。 そこで改めて感じるのは、スポーツ観戦の面白さとは何か、ということである。 私が最も興奮するのは、大逆転であり、最後の最後までもつれる接戦であり、そして何より、格下と見られていたチームが強豪を打ち破る、いわゆる「ジャイアントキリング」である。 圧倒的に強いチームが、予想どおり勝つ試合ではない。 残り時間が少なくなっても勝敗がわからない。負けると思っていたチームが驚異的な粘りを見せ、最後の一瞬に逆転する。あるいは、誰もが勝つと思っていた強豪が、思わぬ敗北を喫する。 そのような試合こそ、スポーツ観戦の醍醐味ではないだろうか。 ハラハラし、時には落胆し、それでも最後まで期待を捨てずに応援する。そして、予想もしなかった勝利に歓喜する。 私にとって、最高に面白い試合とは、安心して観ていられる試合ではない。心配で目を離せない試合なのである。 勝つことが当たり前になれば、勝利の喜びは薄れる。反対に、負ける可能性があるからこそ、勝利には価値が生まれる。 最近、私の関心がプロ野球からバスケットボールへと移りつつあるのも、そこに理由があるのだと思う。 私は野球そのものが嫌いになったのではない。スポーツが本来持っている、勝敗のわからない面白さを楽しみたいのである。 プロ野球も、この当たり前のことを、もう一度考えてみる必要があるのではないだろうか。 スポーツにおける最大の魅力は、強者が勝つことではない。強者が負けるかもしれないという可能性が、最後まで残されていることなのである。
2026.09.21
弁護士生活35年――人間の顔が見える司法を *** 一月一言
弁護士として歩んだ35年
私が弁護士登録をしたのは、1991年のことです。今年で、弁護士生活35年を迎えます。 一般の企業に22歳、23歳で就職したとすれば、勤続35年といえば、すでに定年が視野に入る時期でしょう。そう考えると、35年という歳月の重みを改めて感じます。 振り返れば、決して平坦な道のりではありませんでした。それでも、多くの依頼者、多くの事件、そして多くの人々との出会いに支えられ、今日まで弁護士として歩み続けることができました。「40年表彰」という節目
弁護士会には、登録後40年を迎えた会員を表彰する制度があります。 かつての司法試験は、合格までに長い年月を要する試験でした。合格者の平均年齢も30歳近く、30歳前後で弁護士となり、そこから40年間仕事を続ければ、70歳を超えることになります。 それほど長い間、精神的にも肉体的にも厳しい仕事を続けてきたこと自体、まさに一つの偉業というべきでしょう。 もっとも、50年を節目とすれば、そこまで現役を続けられる弁護士は相当に限られます。その意味では、40年という年数は一見中途半端に見えながらも、弁護士としての長い歩みをたたえるにふさわしい、現実的で重みのある節目なのだと思います。 私が弁護士になったばかりの頃、40年表彰を受ける先輩弁護士の姿を見て、「これほど苛酷な仕事を、40年も続けることができるものなのだろうか」と、半ば畏敬の念をもって眺めていました。 その私自身が、いつの間にか35年を迎えました。 40年表彰まで、あと5年です。変貌した弁護士社会
私の世代は、弁護士を取り巻く環境が大きく変貌する過程を、現場で経験してきた世代です。 私が弁護士になった頃の弁護士会には、今から振り返れば、牧歌的ともいえる穏やかな雰囲気がありました。弁護士同士が互いの顔を知り、先輩が後輩に声をかけ、立場や主張を異にしながらも、同じ地域の司法を担う者として、一定の敬意と連帯感を共有していました。 もちろん、昔がすべて良かったというつもりはありません。 しかし、少なくとも、当時の弁護士同士の関係には、今よりもはっきりと人間の顔が見えていたように思います。 その後、司法制度改革という大きな波が押し寄せました。弁護士の数は飛躍的に増加し、弁護士会も、互いの顔と仕事ぶりを知ることのできる規模を超えていきました。 弁護士同士のつながりは次第に希薄となり、一人ひとりの弁護士が、同じ地域の司法をともに担う仲間というよりも、それぞれ独立した事業者として存在するようになっていったように感じます。司法制度改革が目指したもの
司法制度改革の背景には、事前の規制によって社会を管理する仕組みから、自由な活動を広く認め、そこで生じた紛争を司法によって事後的に解決する社会へ転換するという構想がありました。 そのためには、法的紛争の解決を担う弁護士の数を増やし、全国各地に地域に根ざした弁護士を配置する必要があると考えられました。 いわば、規制によって守られる社会から、法によって権利を実現する社会への転換です。その理念自体には、重要な意味があったと思います。 しかし、制度が思い描いた理念と、その後に現れた現実とは、果たして一致しているのでしょうか。地域司法の現在
北海道新聞は、「弁護士登録、北海道3会伸び悩み鮮明」と報じています。 全国の弁護士数は今後も増加すると見込まれる一方、札幌を除く道内三つの弁護士会では、会員数の伸び悩みが鮮明になっています。大企業や大規模法律事務所が集中する東京との人材獲得競争の中で、地方の司法サービスが低下することへの懸念も示されています。 弁護士の総数を増やせば、弁護士が必要とされる地域や分野に自然に行き渡るわけではありませんでした。 市場原理に委ねれば、仕事と情報と資本が集まる東京へ人が集中するのは、ある意味では当然の帰結です。しかし、司法は、単なる市場サービスではありません。地域に暮らす人々が、等しく権利を守られ、適切な法的支援を受けるための社会基盤です。 弁護士の数は、確かに増えました。 しかし、市民の間に「困ったときには、まず弁護士に相談する」という意識が十分に定着したでしょうか。弁護士は、市民にとって本当に身近な存在になったでしょうか。 私は、なお疑問を感じざるを得ません。司法のIT化と効率化
そして今、私たちは、司法のIT化という新たな変革のただ中にいます。 書面をオンラインで提出できること、遠隔地から裁判期日に参加できること、手続を迅速かつ効率的に進められることには、大きな利点があります。 とりわけ、広大な北海道において、移動に要する時間と負担を軽減できることには、重要な意味があります。IT化そのものを否定する理由はありません。 しかし、便利になることと、司法が良くなることとは、必ずしも同じではありません。 オンラインによる期日が増え、裁判所へ足を運ぶ機会も、相手方代理人と直接顔を合わせる機会も少なくなりました。手続が効率化される一方で、当事者の表情、声の調子、言葉の間、そしてその場の空気から感じ取ることのできたものが、静かにこぼれ落ちてはいないでしょうか。司法から失われつつあるもの
紛争とは、本来、人間と人間との間に生じるものです。 そこには、法律や証拠だけでは割り切ることのできない感情があり、生活があり、それぞれの人生の歴史があります。 司法手続がデータと画面の中だけで進み、人と人とが直接関わらなくても済む世界が広がれば、司法から人間性が失われていく危険があります。 どれほど手続が効率化されても、当事者が一つの事件番号として処理されてはなりません。 裁判は、書面と証拠だけでできているのではありません。その背後には、傷つき、悩み、助けを求めている一人の人間がいます。 弁護士の仕事とは、その人の声を聴き、その痛みを理解し、その人に代わって言葉を尽くすことです。その営みまで効率化の名の下に切り捨ててしまえば、司法はその根本を失うことになるでしょう。35年の経験を未来へ
弁護士として35年を歩んだ今、私には、かつての司法を知っているからこそ、現在の司法について語れることがあるのではないかと思っています。 それは、単に過去を懐かしむことではありません。 司法制度改革やIT化によって得られたものを正当に評価すると同時に、その陰で失われつつあるものにも目を凝らすことです。そして、どれほど制度や技術が変わろうとも、依頼者一人ひとりの人生に向き合い、人間の顔が見える司法を守り続けることです。 長く弁護士を続けてきた者には、その歴史を知る者としての責任があります。 司法が歩んできた道を踏まえ、その功罪を見据えながら、次の世代へ何を引き継ぐべきかを考えること。それが、これからの私に求められる弁護士としての役割なのだと思います。 40年表彰まで、あと5年。 司法から人間性が失われていく時代の流れに抗いながら、これからも、法と人との間に立ち、人と人とを結ぶ弁護士として歩み続けたいと思います。2026.09.21
ソフトバンクが圧倒的に強いプロ野球に未来はあるか。・・・一月一言
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「どうせソフトバンク」と思ったとき、プロ野球は何を失うのか
私は北海道に住んでいますから、当然、北海道日本ハムファイターズの試合をよく見ます。 ところが最近、ソフトバンク戦、特に福岡での試合をあまり見なくなりました。 理由は単純です。「どうせ負けるのではないか」と思ってしまうからです。 途中までリードしていても、最後には逆転されるのではないか。そう思いながら何時間もテレビを見て、実際に逆転負けすれば、楽しいはずの野球観戦でかえってストレスを感じます。それなら今日は別のテレビを見よう。最近、そんなふうに考えることがあります。これは一野球ファンの愚痴にすぎないのでしょうか。私は、そうではないと思っています。むしろ、現在のプロ野球、とりわけパ・リーグの将来を考えるうえで、かなり深刻な問題を含んでいるのではないでしょうか。ソフトバンクを批判したいわけではない
最初にはっきりさせておきたいことがあります。 私はソフトバンクという球団が好きではありません。 しかし、だからといって、ソフトバンクの経営努力を否定するつもりは全くありません。 むしろ逆です。育成選手を多数抱え、三軍、四軍まで整備し、練習施設や指導者に資金を投入する。選手を獲得するだけではなく、自分たちで育てる。そして、足りない戦力があれば補強する。プロ野球球団として、勝つためにできることを徹底的にやっています。その姿勢はリスペクトすべきでしょう。 問題は、 「なぜ他の球団は、そこまでやらないのか」 ということです。「金満球団だから仕方がない」で済ませてよいのか
ソフトバンクには資金力があります。 しかし、資金力がある球団が、その資金を野球に投入して強くなること自体は、何も悪いことではありません。 むしろ私が疑問に思うのは、「ソフトバンクはお金がありますから」という一言で済ませてしまう他球団やプロ野球関係者の姿勢です。 それで本当によいのでしょうか。 育成選手をもっと増やす。スカウトを充実させる。二軍、三軍の環境を整備する。データ分析に投資する。指導者を増やす。必要なら補強もする。勝つためにできることはいくらでもあるはずです。 もちろん、すべての球団がソフトバンクと同じ金額を使えるわけではありません。 しかし、プロスポーツである以上、「本気で優勝するために、どこまで経営資源を投入しているのか」 は問われてよいと思います。最下位になることが悪いのではありません。懸命に戦った結果、最下位になることはあります。問題は、ファンから見て、 「この球団は本当に優勝しようとしているのだろうか」 と思われてしまうことです。資本を投入すれば、それだけ強くなる
ソフトバンクの現在の強さは、一時的なものなのでしょうか。 私はそう簡単には思えません。これは感情論ではなく、むしろ「資本」の問題だと思っています。 資金を投入する。選手を多数獲得する。育成組織を整備する。優秀な指導者を配置する。 その中から一軍選手が生まれる。チームが勝つ。人気と収益が上がる。そして、その収益を再びチーム強化に投入する。 資本 → 育成 → 戦力 → 勝利 → 収益 → 再投資 という循環ができあがります。 一方、他球団の投資規模が変わらなければ、その差は簡単には縮まりません。今の主力選手が30代半ばになったから、あと数年でソフトバンクも弱くなる。そんな単純な話でもないでしょう。 現在の主力が衰えるまでの数年間に、その下から次の世代を育てることができます。 足りなければ補強もできます。そう考えると、「そのうち自然に戦力均衡するだろう」と期待すること自体が危険なのではないでしょうか。勝者は、敗者がいて初めて成り立つ
しかし、ここでプロスポーツには普通の企業競争とは全く違うところがあります。 一般企業なら、競争相手を圧倒して市場を独占することは、大きな成功でしょう。 しかし、プロ野球球団は違います。 対戦相手がいなくなれば、試合そのものができません。つまり、ソフトバンクという商品の一部は、日本ハム、オリックス、西武、楽天、ロッテが作っているのです。 逆も同じです。 勝者は、敗者がいて初めて成り立ちます。 もっといえば、 偉大な勝者は、強い敗者がいて初めて生まれます。 圧倒的な戦力差で勝ち続けるより、互いに死力を尽くして、最後の最後に勝つ。 その一勝の方が、はるかに人の記憶に残ります。18勝5敗は、本当に一番面白いのだろうか
今季、ファイターズはソフトバンクに大きく負け越しています。 ホークスファンからすれば、もちろん嬉しいでしょう。 応援しているチームが勝つのですから当然です。 しかし、私は別のことも聞いてみたい。 「それは本当に、一番面白い野球ですか」 と。 18勝5敗で圧倒する。 もちろん勝利の喜びはあります。 しかし、9勝9敗で最後の一戦を迎える。 勝った方が優勝。 9回二死、走者二人。 一打逆転。 そういう試合で勝つ喜びとは、まったく質が違うのではないでしょうか。 スポーツの感動には、 「負けるかもしれない」 という恐怖が必要です。 負ける可能性があるからこそ、勝った瞬間に歓喜するのです。「アンチだから見る」と「どうせ負けるから見ない」
かつてプロ野球には、巨人とアンチ巨人という構図がありました。 巨人が強くても、アンチ巨人は巨人戦を見ました。 なぜなら、 「巨人が負けるところを見たい」 からです。 これは興行としては成功です。 嫌われていても、見てもらえているからです。 しかし現在のパ・リーグは、少し事情が違うように思います。 北海道にはファイターズがあります。 福岡にはホークス。 仙台にはイーグルス。 千葉にはマリーンズ。 埼玉にはライオンズ。 大阪にはバファローズ。 長い時間をかけて、地域密着型のプロ野球文化を作ってきました。 だから北海道のファンは、ファイターズに勝ってほしいのです。 そのファンが、 「ソフトバンク戦か。どうせ負けるから今日は見ない」 と思い始めたら、これは相当に危険です。 「負けて悔しい。明日は勝て」 なら、まだいい。 「嫌いだから負けるところを見たい」 でもいい。 一番怖いのは、 「どうせ負けるから見ない」 です。 その瞬間、プロ野球は一人の視聴者を失っています。本当に怖い競争相手は、JリーグでもBリーグでもないかもしれない
そして最近、私はさらに気になることがあります。 私の周囲でも、年配の野球ファンがファイターズより大リーグを見ることが増えています。 理由は大谷翔平選手です。北海道では特にそうでしょう。大谷選手は、遠いアメリカのスーパースターではありません。 私たちがファイターズで見ていた選手です。 札幌ドームで投げ、打っていた選手が、世界最高峰の舞台で活躍している。見たくなるのは当然です。 すると、野球ファンの一日はこうなります。午前中、大谷選手の試合を見る。ホームランを打つだろうか。今日は投げるのだろうか。ドジャースは勝つだろうか。 そして夕方になる。「今日のファイターズは……福岡でソフトバンク戦か」そう思った瞬間、 「今日はもういいかな」 となる。 これはNPBにとって、かなり怖いことではないでしょうか。MLBが奪っているのは「ファン」ではなく「ファンの時間」
大谷選手を見るようになった人が、ファイターズファンをやめたわけではありません。 ここが重要です。 ファイターズも好き。 順位も気になる。 エスコンにも行く。 しかし、毎日テレビで見る野球はMLB。 こういう人が増える可能性があります。 つまりMLBが日本から奪っているのは、 「ファンそのもの」ではなく、「ファンの時間」 なのです。 これは非常に巧みなビジネスです。 大谷選手だけではありません。山本由伸選手もいます。佐々木朗希選手もいます。 これからも日本の一流選手はMLBへ挑戦するでしょう。NPBで育ったスターがアメリカへ渡る。 そしてスターだけでなく、その選手を応援していた日本のファンの視線までアメリカへ移っていく。 MLBは日本市場を非常に重要なマーケットとして考えています。 さすがBusinessの国だと思います。NPBは何を売っているのか
では、NPBがMLBに対抗できるものは何でしょうか。 私は「地域」と「優勝争い」だと思います。大谷選手は素晴らしい。しかし、北海道の球団ではありません。ファイターズなら、実際にエスコンへ行くことができます。家族で応援できます。北海道という地域全体で喜ぶことができます。 そして何より、 「今年はファイターズが優勝するかもしれない」 という夢があります。 これはMLBには代替できません。 ところが、その最後の夢まで、 「どうせソフトバンク」 となったらどうでしょう。 世界最高峰の野球で大谷選手を見ることと、結果がおおよそ予想できるパ・リーグを見ること。 限られた時間をどちらに使うか。 消費者の選択は、必ずしもNPBに有利ではないと思います。ソフトバンクの成功と、パ・リーグの成功は同じではない
ここで、もう一度最初に戻ります。 私はソフトバンクの企業努力を否定するつもりはありません。 むしろ評価しています。 問題は、その成功を見て、 「ソフトバンクは強い。素晴らしい」 だけで終わってしまうプロ野球界です。 一球団の成功と、リーグ全体の成功は同じではありません。 ソフトバンクの成功 ≠ パ・リーグの成功 ≠ NPBの成功 です。 ソフトバンクが勝つために合理的な行動を取り続ける。それは当然です。しかし他球団が同じような熱量で対抗しなければ、戦力差は広がる。ペナントレースの不確実性が失われる。他球団のファンが試合を見なくなる。そして、その時間をMLBが奪っていく。 個々の球団経営としては合理的でも、リーグ全体では望ましくない結果になる可能性があります。強いソフトバンクを、もっと強い相手が倒すリーグに
では、どうすればよいのでしょう。 私はソフトバンクを弱くすればよいとは思いません。 反対です。 他の球団がもっと強くならなければならない。 もっと選手を育てる。 もっと施設に投資する。 もっとスカウトする。 もっとデータを活用する。 必要なら補強する。 「ソフトバンクには資金力がありますから」で諦めない。 ファンから入ってきたお金を、勝つために再投資する。 そしてリーグ全体としても、 「加盟球団が本気で優勝を目指すこと」 を当然の前提とする制度を考えるべきではないでしょうか。 ソフトバンク90勝。 ファイターズ88勝。 オリックス86勝。 最終週まで優勝チームが分からない。 そんなリーグなら、ホークスファンだって、ファイターズファンだって毎日見るでしょう。 その中でホークスが優勝するのであれば、それこそ素晴らしい優勝です。プロ野球が売っているものは「勝利」ではない
プロスポーツについて考えていると、最後はここに行き着きます。 プロ野球が売っている商品は、本当に「勝利」なのでしょうか。 私は違うと思います。 プロ野球が売っているのは「競争」です。 勝つかもしれない。 負けるかもしれない。 今年は駄目だった。 しかし来年は分からない。 だから人は球場へ行きます。 だから毎日順位表を見ます。 だから負けても翌日の試合を見るのです。 勝者は敗者がいるからこそ成り立つ。 そして敗者には、 「明日は自分たちが勝者になれる」 という希望がなければなりません。 その希望が失われたとき、ファンは怒るのではないかもしれません。 もっと怖いことが起こります。 静かに、見なくなる。 テレビを消す。 別の番組を見る。 あるいは朝、大谷翔平選手を見る。 私は、これこそが現在のプロ野球が最も警戒すべきことではないかと思っています。
2026.09.14
張本勲と中島卓也――自分の「勝ち方」、そして事件の「終わらせ方」 一月一言
- 野球を見ていると、ときどき、これは仕事にも人生にも通じる話だと思うことがあります。最近、張本勲さんと北海道日本ハムファイターズの中島卓也さんという、二人の左打者について考える機会がありました。二人の打撃方法は、ずいぶん違います。
しかし、その違いを考えているうちに、
自分の長所をどう生かすか。
自分の弱点とどう付き合うか。
そして、自分に合った方法をどう選ぶか。
ということについて、二人はそれぞれ違う方法で一つの答えを示しているように思えてきました。
そしてこれは、私たち弁護士の仕事にも通じる話だと思います。
張本勲――一本を取り続けた人
張本勲さんは、日本プロ野球史上ただ一人、3000安打を超えた打者です。 通算3085安打。 しかも504本塁打、319盗塁。シーズン3割を16回記録した、日本野球史上屈指の打者です。 張本さんの打法は「扇打法」と呼ばれました。 すり足でタイミングを取り、柔らかなバットコントロールで広角に打ち分ける。 単にボールを強く打つのではなく、どこへ打てばヒットになるのかを知り尽くしていた打者だったのでしょう。 私は張本さんについて考えていると、いつも次のようなことを思います。 試合が決まったから、この打席はいい。 今年は優勝できないから、今日はいい。 3000本を打ったから、もういい。 張本さんには、そういう「もういい」が非常に少なかったのではないでしょうか。 目の前に一打席がある。 それなら、一本を取りに行く。 昨日一本打ったから、今日はいい、ではない。 3000本打ったから、もういい、でもない。 その積み重ねが3085本になったのでしょう。 自分に与えられた最大の長所を知り、それを誰にも届かないところまで磨く。 一つの生き方だと思います。中島卓也――「飛ばない」ことから生まれた打法
一方、中島卓也さんは、まったく違うタイプの打者です。 中島さんには、張本さんのような長打力はありません。 プロ野球選手としては小柄で、ホームランを量産する選手でもありませんでした。 そこで、中島さんが磨いたのが「ファウルを打つ」という技術でした。 2ストライクに追い込まれると、発想そのものを変える。 ヒットを打とうとするのではなく、ファウルを打つ。 ボールをぎりぎりまで引きつけ、三塁側へ逃がす。 もう一球、投手に投げさせる。 またファウル。 また一球。 そして最後には四球で一塁へ出る。 2016年には759本ものファウルを打ち、その大部分が三塁方向だったといいます。 これは単なる「振り遅れ」ではありません。 ファウルを、一つの技術にしてしまった。 しかも、一塁へ出れば足があります。 2015年には34盗塁で盗塁王になっています。 守備でも、遊撃手として広い守備範囲と確実性を備えていました。 ホームランを打たなくても、 ファウルで粘る。 四球を選ぶ。 塁に出れば走る。 守ればアウトを取る。 そうやって、自分の仕事を作っていった選手です。張本さんと中島さん――正反対の二人
二人は正反対です。 張本さんは、 「打てる」という圧倒的な長所を、誰にも到達できないところまで磨いた。 中島さんは、 「飛ばせない」という弱点を認め、それでも生き残れる方法を、誰にも真似できないところまで磨いた。 しかし、最後には同じところへ行き着いたように思います。 自分が何者なのかを知ること。 できることを知る。 できないことも知る。 そのうえで、 「では、自分はどうするのか」 を考える。 張本さんが中島さんの真似をする必要はない。 中島さんが張本さんになろうとする必要もない。 それぞれが、自分の野球をすればよいのです。法律事務所にも、それぞれの仕事の仕方がある
これは法律事務所にも当てはまると思います。 世の中には、何百人もの弁護士が所属し、立派な建物にオフィスを構え、国内外に多くの拠点を持つ法律事務所があります。 私の事務所は、そのような規模や建物の立派さで勝負する事務所ではありません。 弱点もあります。 できないこともあります。 それでよいと思っています。 では、私たちは何で仕事をするのか。 長く弁護士をしてきて、私たちが比較的自信を持っていることがあります。 それは、 「この事件にとって、どのような解決が一番よいのか」を見極めること。 そして、 「その解決を実現するためには、どのような手段を選ぶべきか」を判断すること。 です。事件を「どこへ連れていくか」
同じように見える事件でも、一つとして同じ事件はありません。 法律関係が似ていても、証拠が違います。 相手方が違います。 当事者の性格も違います。 人間関係も違います。 そして何より、依頼者が求めているものが違います。 だから、法律を知っているだけでは解決方針は決まりません。 この事件は、どこまで行けるのか。 何を取るべきなのか。 何をあえて捨てるべきなのか。 今動くべきなのか。 少し待つべきなのか。 交渉なのか。 調停なのか。 訴訟なのか。 徹底して争うのか。 早く終わらせるのか。 争点を広げるのか。 一点に絞るのか。 私たちが経験の中で培ってきたものがあるとすれば、 「この事件を、どこへ連れていくのがよいのか」 という見極めなのだと思います。勝つことだけが「解決」ではない
ここまで「勝負」「勝ち方」という言葉を使ってきました。 しかし、弁護士の仕事についていえば、私は勝利至上主義ではありません。 もちろん、勝たなければならない事件はあります。 依頼者の権利を守るために、一歩も退かず、判決まで求めるべき事件もあります。 しかし、それだけが解決ではありません。 法律問題の背後には、人間がいます。 夫婦がいる。 親子がいる。 兄弟姉妹がいる。 長年付き合ってきた取引先がいる。 同じ職場で働いてきた人がいる。 そこには、法律だけでは割り切れない感情や歴史があります。 その複雑な人間関係を一つ一つ整理して、 双方が完全には満足しなくても、これ以上傷つかず、それぞれが次へ進める地点を探す。 いわば、 「引き分けに持っていく」。 それも、立派な解決です。 むしろ、双方が「勝った」と主張していつまでも争い続けるより、上手に引き分けて紛争を終わらせる方が、はるかに難しい事件さえあります。懸命に戦って、負けることも立派な解決である
もう一つあります。 弁護士がどれほど懸命に仕事をしても、すべての裁判に勝てるわけではありません。 証拠が足りない。 医学的な因果関係を証明できない。 実際にはそうであったとしても、裁判という制度の中では立証できない。 そういうことがあります。 しかし、それでも戦う意味のある事件があります。 依頼者の言い分をきちんと主張する。 調べるべきことを調べる。 集められる証拠を集める。 専門家にも意見を求める。 相手方の主張に反論する。 そして、裁判所の判断を求める。 できることを尽くして、それでも負ける。 それもまた、立派な解決だと思っています。 「言うべきことは言った」 「調べるべきことは調べた」 「できることはやった」 「そして第三者である裁判所の判断を受けた」 そこまで行くことによって、初めて一区切りをつけ、次の人生へ進める人もいるからです。 勝敗だけでは測れないものが、紛争解決にはあります。自分に非があるときにも、弁護士の仕事はある
そして、弁護士のところへ来られる方が、いつも法律的に「正しい側」にいるわけでもありません。 例えば、不貞をしてしまい、慰謝料を請求されて困っている。 自動車保険が切れているときに交通事故を起こしてしまい、多額の損害賠償を求められている。 契約上、自分に責任があることは分かっている。しかし、請求された金額を一括して支払うことはできない。 そういう相談もあります。 このような事件で、責任そのものを無理に否定し、「何とかして勝とう」とすることがよい解決とは限りません。 責任があるのであれば、それを踏まえる。 そのうえで、 「では、この問題をどうすればきちんと終わらせることができるのか」 を考えます。あえて、こちらから調停を申し立てる
場合によっては、請求されるのを待つのではなく、こちらから裁判所に調停を申し立てることもあります。 責任から逃げるためではありません。 むしろ逆です。 「負うべき責任から逃げるつもりはありません。しかし、現実に可能な方法で解決したい」 と、こちらから話合いの場を作るのです。 例えば不貞の問題であれば、責任の有無をいたずらに争うのではなく、慰謝料額や支払方法、今後の関係などを整理して紛争を終わらせる。 無保険で交通事故を起こしてしまったのであれば、損害額をきちんと確認し、負うべき賠償責任を整理したうえで、現実に履行できる支払方法を話し合う。 相手方との直接交渉では感情的対立が強すぎるのであれば、裁判所の調停委員という第三者に入ってもらう。 「訴えられるのを待つ」のではなく、自分から解決の場を作る。 そういう道もあるのです。 もちろん、すべての事件で調停が適切なわけではありません。 交渉の方がよい事件もあれば、訴訟になってから解決すべき事件もあります。 ここでも大切なのは、調停という手段そのものではありません。 その事件に合った手段を選ぶことです。弁護士は「勝てる人」だけのためにいるのではない
私は、このことはもっと知られてよいと思っています。 自分が悪かった。 失敗してしまった。 取り返しのつかないことをしたかもしれない。 相手から突然請求書が届いた。 どうしたらよいか分からない。 そのようなときに、 「自分が悪いのだから、弁護士に相談しても仕方がない」 と思う必要はありません。 弁護士は、「正しい人」を勝たせるためだけにいるわけではありません。 責任があるのであれば、どこまで責任を負うべきなのかを整理する。 負うべき責任は負う。 しかし、負う必要のない責任まで負わない。 必要であれば謝罪する。 現実に履行できる支払方法を考える。 場合によってはこちらから調停を申し立て、相手方にも納得してもらえる出口を探す。 「勝つ」のではなく、「きちんと終わらせる」。 それが最良の解決である事件もあります。ホームランだけが野球ではない
ここで、もう一度、中島卓也さんに戻ります。 ホームランを打てない。 だったら、ホームランを打てる選手の真似をする必要はない。 ファウルにする。 もう一球投げさせる。 またファウルにする。 四球を選ぶ。 塁に出たら走る。 守備では確実にアウトを取る。 中島さんは、野球というゲームの中に、自分が価値を生み出せる別の道を見つけた選手だったのだと思います。 法律問題も同じです。 訴訟を起こして全面勝訴することだけが、弁護士の仕事ではありません。 ときには強く戦う。 ときには粘る。 ときにはこちらから頭を下げる。 ときには相手にも少し譲ってもらい、こちらも少し譲る。 ときには、こちらから調停を申し立てる。 そして双方が、 「これで、この問題は終わりにしましょう」 と言える地点を探す。 ホームランではないかもしれません。 ヒットですらないかもしれません。 しかし、中島さんのファウルや四球がチームにとって価値を持ったように、 その事件にとっては、それが最も価値のある解決であることがあります。一点、光る法律事務所でありたい
私の事務所は、大規模な法律事務所ではありません。 立派な建物や大人数の組織を武器にすることもできません。 弱点もあります。 何でもできるわけでもありません。 しかし、それでよいと思っています。 私たちが目指しているのは、「必ず勝つ法律事務所」ではありません。 そもそも、そんなことを約束できる弁護士はいません。 私が目指したいのは、 「この事件にとって、何が一番よい解決なのかを考え抜く法律事務所」 です。 そして、その解決を実現するために、経験に裏付けられた方法を選ぶ。 勝つべき事件なら、勝つために戦う。 引き分けるべき事件なら、複雑に絡んだ人間関係を一つ一つほどき、双方が前へ進める地点を探す。 こちらに責任がある事件なら、責任を踏まえたうえで、穏当な解決への道を探す。 そして、戦うべき事件なら、たとえ負ける可能性があっても、できることを尽くして戦う。 勝つ。 引き分ける。 責任を受け入れて、穏当に終わらせる。 懸命に戦って、負ける。 そのいずれも、依頼者にとって意味があるなら、立派な解決になり得ます。 大切なのは、どれを選ぶかです。 張本さんのように、一本を取りに行くべきときには、一本を取りに行く。 中島さんのように、簡単にはアウトにならず、ファウルで粘るべきときには粘る。 そして、ときには勝敗そのものから離れて、試合をきちんと終わらせる方法を探す。 その事件を、どこへ連れていくべきなのか。 そのためには、どの道を選ぶべきなのか。 その見極めには、法律の知識だけではなく、これまで経験してきた数多くの事件――うまくいった事件も、思うようにならなかった事件も含めて――が生きてくると思っています。 。
2026.09.11
「もういい」がなかった人――張本勲さんを偲んで 一月一言
- 史上、唯一の3,000本安打達成者である。この数字だけでも十分に偉大である。しかし、張本さんについて改めて調べているうちに、私には3,085という数字とは別のところに、この人の凄さがあったのではないかと思えてきた。それは、張本さんには、人生の中で「もういい」が非常に少なかったのではないか、ということである。
「もういい」がなかった
野球は長い。一試合の中にも、シーズンの中にも、そして20年以上に及ぶ現役生活の中にも、いくらでも気持ちを抜く理由がある。 試合が決まったから、この打席はいい。 今年は優勝できないから、今日はいい。 3,000本を打ったから、もういい。 張本さんには、そういう「もういい」が非常に少なかったのではないだろうか。3,085本という記録は、華々しい一打だけでできたものではない。優勝争いの天王山で打った一本もあれば、大差で負けている試合で打った一本もあっただろう。チームが下位に沈み、優勝の可能性がほとんどなくなった季節に打った一本もあったはずである。記録上は、すべて同じ「1安打」である。しかし、その一本を20年以上にわたって積み重ねるためには、選手自身が、一見意味のないように見える打席にも意味を見いだし続けなければならない。張本さんの凄さは、そこにあったのではないかと思う。弱いチームで打ち続けるということ
張本さんは、現役生活の大部分を東映フライヤーズ、その後の日拓ホーム、日本ハムで過ごした。 もちろん優勝した年もある。しかし、長嶋茂雄さんや王貞治さんのように、毎年のように優勝を求められる巨人で現役生活の大部分を過ごしたわけではない。 これは、安打数を積み重ねるうえでは、絶対的な中心選手として試合に出続けられるという利点があったのかもしれない。 しかし、私はむしろ逆のことを考える。 優勝争いをしているから頑張れる、というのは分かりやすい。 満員の観客がいる。日本シリーズが待っている。新聞の一面になる。目の前に大きな目標がある。 しかし、優勝の可能性がなくなっても、今日の第一打席に集中する。明日も球場へ行く。そして一本を取りにいく。 こちらの方が、ある意味では難しいのではないだろうか。 3,085本の中には、誰も覚えていない安打が何千本もある。 しかし、誰も覚えていない一本を疎かにしなかったからこそ、3,085本になったのである。 *****504本塁打の陰にある「319盗塁」
そして、張本さんについて、あまりスポットライトの当たらない数字がある。 通算319盗塁。 私は、この数字を改めて知って驚いた。張本さんは3,085安打を打っただけではない。通算504本塁打を記録している。生涯打率も3割1分9厘を超える。それほどの大打者が、319回も盗塁しているのである。500本塁打と300盗塁をともに達成した日本プロ野球選手は、張本さんだけである。ホームランを500本も打つ選手であれば、塁に出た後まで無理をして走る必要はない、と考えても不思議ではない。しかし、張本さんは走った。『サンデーモーニング』で若い選手の走塁に厳しかったことを覚えている方も多いと思う。今になって319という数字を見ると、あの厳しさの意味が少し違って見えてくる。「なぜ次の塁を狙わないんだ」という言葉の後ろには、「自分は狙ったぞ」という自負があったのではないだろうか。『巨人の星』で知ったタイ・カッブとの共通性
私は子供のころ、『巨人の星』でタイ・カッブの逸話を知った記憶がある。試合が一方的な展開になっても、カッブは安打を狙い、塁に出れば盗塁まで狙ったという話である。勝敗がほぼ決まっているからといって、手を抜かない。打席に立った以上は打つ。塁に出た以上は次の塁を狙う。子供心に、その執念が強く印象に残った。張本さんの3,085安打と319盗塁を見ていると、私はこのタイ・カッブの話を思い出す。勝つ可能性があるから全力を尽くすのではない。自分がグラウンドに立っている以上、全力を尽くす。この二つは似ているようで、実は大きく違う。生かされた命
そして、張本さんの「もういい」がなかった人生を考えるとき、避けて通れないことがある。原爆である。 張本さんは5歳のとき、広島で被爆した。爆心地から約2キロ。自宅が比治山の陰にあったことなどが幸いし、張本さんは生き残った。しかし、大好きだった姉はそうではなかった。勤労奉仕に出ていた姉は被爆し、変わり果てた姿で家に運ばれてきた。幼い張本さんは、その姉が苦しみながら亡くなっていく姿を見ている。ほんの少し場所が違えば、自分が死んでいたかもしれない。自分は生き、姉は死んだ。さらに張本さんには、幼少時の火傷による右手の障害があった。在日韓国人として生きることによる苦労もあった。それでも、それらを言い訳にはしなかった。むしろ現役時代には、被爆者であることさえ長く公にしなかった。「生かされた」という思いを張本さんがどのような言葉で自分の中に置いていたのか、他人である私には分からない。また、「姉の分まで生きる」と明確に語っていたと断定することもできない。しかし、5歳でその光景を見た人間にとって、「今日を生きている」ということの重みが、私たちと全く同じであったとは思えない。だから私は、3,085本という数字を見るとき、 「生きている以上は、今日も打つ」 という張本さんの声が聞こえるような気がするのである。大沢親分との出会い
そんな張本さんも、現役引退後は、必ずしも誰からも親しまれる存在ではなかったように思う。偉大な記録を持ち、プライドが高く、言うべきことをはっきり言う。時には、周囲から煙たがられる存在でもあったのではないだろうか。 その張本さんの印象を大きく変えたのが、『サンデーモーニング』だった。そして何より、大沢啓二さんとの出会いだったと思う。「大沢親分」の隣に座ると、不思議なことに張本さんが「弟分」になった。あれほど気の強い張本さんが、大沢さんの横では笑い、時にはたしなめられ、二人で「喝!」を入れる。そこには、現役時代の大打者・張本勲とは違う、愛嬌のある「張さん」がいた。人は、60歳近くになっても変わるのだと思う。あるいは、変わったのではなく、それまで外からは見えなかった部分を、大沢さんが引き出したのかもしれない。 人間には、自分一人では出せない表情がある。それを引き出してくれる人との出会いがある。大沢さんとの出会いがなければ、私たちが知っている晩年の「張さん」は、少し違う人だったかもしれない。王貞治さんへの敬意
もう一つ、張本さんを見ていて印象的だったのは、王貞治さんへの敬意である。二人は同じ1940年生まれで、同じ1959年にプロ入りした。普通なら最大のライバルである。しかし、張本さんは王さんについて語るとき、本当に敬意を隠さなかった。王さんもまた、中国出身の父を持ち、日本で生まれ育ちながら、国籍の問題など、当時の日本社会の中で複雑な経験をしている。二人にしか分からないものがあったのかもしれない。そして王さんは、選手として868本塁打を打っただけではない。引退後には監督として人を育て、チームを率い、日本代表を率いて世界一にもなった。張本さんにはなかった第二の野球人生を、王さんは歩いた。同い年だからこそ、張本さんには、その凄さが誰よりも分かったのではないだろうか。本当に強い競争心を持った人間は、時として、本当に強い相手を素直に認めることができる。二人の関係を見ていると、そんなことを思う。「もういい」と思わないこと
法律事務所の仕事をしていると、野球とは全く違う世界ではあるが、「もういい」と思いたくなる場面はいくらでもある。事件が思うように進まない。こちらの主張がなかなか理解されない。資料を読み返しても、新しいものが見つからない。相手方の主張に何度反論しても、同じ議論が繰り返される。そんなとき、「ここまでやったのだから、もういいだろう」と思うことがある。しかし、依頼者にとって、その事件は人生に一度の事件かもしれない。こちらにとって何百件のうちの一件であっても、その人にとっては一件しかない。誰も気づかないかもしれない。結果に影響しないかもしれない。それでも裁判所に直接訴えかける。考えてみれば、3,085本という記録も、そのような「誰も覚えていない一本」の積み重ねだったのではないだろうか。華やかなホームランだけが野球ではない。スポットライトの当たらない盗塁もある。 優勝とは関係のない試合の安打もある。そして人生には、一人で頑張るだけではなく、大沢親分のような人との出会いもある。 「もういい」と思わず、今日の一つをきちんとやること。 そして、自分を変えてくれる人との出会いを大切にすること。 張本勲さんの長い人生を振り返って、私はそんなことを考えた。 3,085本の安打のうち、私たちが映像で覚えているものは、ほんのわずかである。 しかし、誰も覚えていない一本がなければ、3,085本にはならない。人生も仕事も、案外そういうものなのかもしれない。2026.08.09
閑話休題 映画『アパートの鍵貸します』をもう一度観る
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60年以上前の名画
最近、一度観た映画を、何年か経ってからもう一度観ることがある。 若いころは、せっかく映画を観るなら、まだ観たことのない映画を観たいと思っていた。しかし、年齢を重ねてみると、昔観た映画をもう一度観るのもなかなかいい。 今回観直したのは、ビリー・ワイルダー監督の『アパートの鍵貸します』(原題 The Apartment)である。 1960年のアメリカ映画で、主演はジャック・レモンとシャーリー・マクレーン。アカデミー賞では作品賞、監督賞など5部門を受賞している。 映画が作られた1960年といえば、戦争が終わってまだ15年しか経っていない。 そう考えて観ると、映画のストーリーとは別のところでも、いろいろなことに目が行く。1960年のニューヨークと日本
舞台は、ニューヨークの大手保険会社である。 高層ビルの広大なフロアに、数百人もの従業員が机を並べて働いている。その光景だけでも壮観である。 エレベーターには、それぞれエレベーターガールが乗務している。出発の際にはカスタネットのような器具を鳴らして合図をする。 シャーリー・マクレーン演じるフランも、そのエレベーターガールの一人である。 主人公のC・C・バクスターを演じるのがジャック・レモン。 独身の会社員で、マンハッタンに一人でアパートを借りている。 自宅では冷凍食品を冷蔵庫から取り出し、オーブンで温めて食べる。テレビを離れたところから操作する場面まで出てくる。 今なら何でもない日常の光景である。 しかし、これは1960年の映画である。 当時の札幌には、ニューヨークのような高層ビル群などなかった。冷凍食品も今のように一般家庭に広く普及していた時代ではない。テレビそのものが、まだ家庭の豊かさを象徴するような時代だった。 戦後わずか15年の時点で、ニューヨークでは既にこんな都市生活が営まれていたのか。 今さらながら、当時の日米の経済格差に驚かされる。 古い映画の面白さの一つは、物語だけではない。 その時代の街並み、職場、服装、食生活、男女の働き方、そして人々が当たり前だと思っていた生活そのものが映像として残されている。 映画は、知らず知らずのうちに時代の記録にもなっているのである。出世のために「アパートの鍵」を貸す男
『アパートの鍵貸します』という邦題は、まさに物語そのものを表している。 バクスターは、自分のアパートを会社の上司たちに貸している。 何のために貸すのか。 上司たちが女性と密会する場所として使うためである。 その見返りに、上司たちはバクスターの勤務評価を良くする。 その結果、彼は会社の中で次第に出世していく。 何とも情けない話である。 ところが、ジャック・レモンが演じると、そんな主人公が妙に憎めない。 上司から部屋を貸してくれと言われれば断れない。自分の部屋なのに自分が入れず、寒いニューヨークの街を時間をつぶして歩く羽目になる。 それでも出世のために我慢する。 組織の中で上司に気に入られようとするサラリーマンの悲哀は、1960年のニューヨークであろうと、どこか普遍的なものがある。恋した女性と上司
そんなバクスターが恋をする。 相手は、会社のエレベーターガール、フラン・キューブリックである。 ところが、やがてバクスターは、フランが自分を引き上げてくれた会社の上役と交際していることを知る。 しかも、自分が上司たちに提供してきた、あのアパートが二人の関係にもかかわってくる。 ここから物語は、単純なロマンティック・コメディーではなくなっていく。 出世のためなら、どこまで自分を曲げるのか。 会社の中で「うまくやる」とは、いったいどういうことなのか。 人を好きになるとはどういうことなのか。 そして最後には、自分自身を大切にして生きるとはどういうことなのか。 映画は笑いを交えながら、そんな問題を観客に突きつけてくる。 しかも、決して説教臭くない。 そこがビリー・ワイルダーのうまさなのだろう。ラストシーンのシャーリー・マクレーン
今回改めて観て、特に印象に残ったのはシャーリー・マクレーンである。 彼女が演じるフランは、明るく振る舞ってはいるものの、映画の中ではどこか影を漂わせている。 報われない恋愛に悩みながら、それでも簡単にはそこから抜け出すことができない。 その寂しさや危うさを、シャーリー・マクレーンは大げさな演技ではなく、表情やちょっとした仕草で見せている。 ところが、ラストシーンになると、その表情が変わる。 私は、この映画の中で、ラストシーンのシャーリー・マクレーンが一番美しく描かれているように思う。 それまで彼女を覆っていた影が、すっと消えたように見えるのである。 そして、あの有名な最後のやり取りになる。 実に洒落たラストシーンである。 大げさな愛の言葉があるわけではない。 しかし、そこに至るまでの二人をずっと見てきた観客には、それで十分なのである。 ジャック・レモンとシャーリー・マクレーンの演技はもちろんだが、脚本も実によくできている。 何気なく登場した小道具や会話、ちょっとした出来事が、後になって別の意味を持ってくる。 いくつものエピソードが伏線となり、それが最後に向かってきれいに回収されていく。 一度目はストーリーを追って観る。 二度目は結末を知っているからこそ、 「ここが、あの場面につながっていたのか」 と気づく。 これも、名画を再び観る楽しみである。北大法学部の給湯室で映画を論じたころ
私が『アパートの鍵貸します』を初めて観たのは、司法試験の受験生だったころである。 当時、NHKでは名画を放送する番組があり、そこで古今の名作映画を観ることができた。 北大法学部の給湯室には司法試験受験生が集まっていたが、一時期、前夜に放送された名画を観て、翌日、その映画について議論することがちょっとしたブームになったことがある。 司法試験受験生の議論だから、単に、 「面白かった」 「この俳優が良かった」 だけでは終わらない。 「あの場面は、この後の展開の伏線だったのではないか」 「いや、その前の場面から既に伏線が張られていた」 などと、映画の構成について議論する。 さらに、映画の中で事件や揉め事が起きれば、 「これを法律的に考えると、どうなるのだろう」 という話になる。 映画を観ているときまで、司法試験受験生なのである。 『アパートの鍵貸します』などは、考えてみれば議論の材料には事欠かない。 会社の上司と部下との関係、人事評価と昇進、上司からの要求、職場内の男女関係、そして主人公が上司のために自宅を提供するという奇妙な関係。 もちろん、映画を法律問題として分析するために観ていたわけではない。 それでも、毎日法律を勉強している若者が何人も集まれば、いつの間にか法律の話になってしまう。 法律の議論をしたかと思えば、次には映画の伏線について議論する。 今から思えば、司法試験の勉強の合間の、なかなか楽しい、そして贅沢な時間だった。 あのころ、いろいろな名画を観たはずである。 しかし、何十年経っても、とりわけ記憶に残っているのが、この『アパートの鍵貸します』なのである。小学生のころ母と観た『お熱いのがお好き』
ジャック・レモンといえば、私にはもう一本、忘れられない映画がある。 同じビリー・ワイルダー監督の『お熱いのがお好き』である。 こちらはもっと昔、小学生のころに母親と自宅のテレビで観た記憶がある。 淀川長治さんの名司会で知られた日曜洋画劇場だったと思う。 『お熱いのがお好き』は、小学生にも分かりやすく、とにかく楽しい映画だった。 ジャック・レモン、トニー・カーティス、そしてマリリン・モンロー。 ギャングから逃げるために男性二人が女装して女性楽団に紛れ込むという、何とも荒唐無稽な話なのだが、今観ても実に面白い。 子供のころに観た映画というのは、映画の内容だけではなく、 「誰と観たのか」 という記憶まで一緒に残っていることがある。 私にとって『お熱いのがお好き』は、ジャック・レモンやマリリン・モンローの映画であると同時に、母親と一緒にテレビの前で観た映画でもある。映画の中のホテルを訪ねる
『お熱いのがお好き』の劇中の舞台はフロリダだが、ホテルの場面の撮影には、カリフォルニア州サンディエゴ近郊のコロナドにある歴史的なホテル、ホテル・デル・コロナドが使われている。 私は2000年にサンディエゴを旅行した際、このホテルを訪れた。 「あの映画に出てきたホテルが、ここなのか」 小学生のころ、母親と自宅のテレビで観た映画の場所に、何十年も経って自分が実際に立っている。 感慨深いものがあった。 同じようなことは、ニューヨークを訪れたときにもあった。 摩天楼を見上げながら、 「ジャック・レモンが働いていた会社も、こんなビルだったのだろうか」 などと思った。 映画の中で見たアメリカと、後年、自分自身が歩いたアメリカ。 そこに何十年という時間を隔てた自分自身の記憶が重なってくる。同じ映画でも、観る自分が変わっている
若いころは、新しい映画を観たいと思った。 まだ知らないストーリー、まだ見たことのない映像、新しい刺激を求めていたのだろう。 もちろん、今でも新しい映画やドラマは面白い。 しかし最近は、一度観た映画をもう一度観ることにも、別の楽しさを感じるようになった。 結末を知っているからこそ、細かな演技や台詞、小道具に目が向く。 若いころには気づかなかった伏線に気づく。 そして、若いころにはよく分からなかった登場人物の気持ちが、何十年か経ってから分かることもある。 映画は変わっていない。 変わったのは、それを観る自分の方なのである。昔の映画を観ることは、昔の自分に会うこと
『アパートの鍵貸します』を観れば、司法試験の勉強をしていたころの自分を思い出す。 北大法学部の給湯室で、仲間たちと映画の伏線について議論し、ついには法律問題まで論じていた自分たちを思い出す。 『お熱いのがお好き』を観れば、小学生だった自分と、一緒にテレビを観ていた母親を思い出す。 ホテル・デル・コロナドを見れば、2000年にサンディエゴを旅した自分を思い出す。 ニューヨークの摩天楼を思い出せば、そこにはまた『アパートの鍵貸します』のジャック・レモンが重なってくる。 一つの映画に、人生のいくつもの時代の記憶が重なっているのである。 今は、古い映画やドラマを気軽に観ることのできる時代になった。 次から次へと新しい作品を追いかけるのもいい。 しかし、ときには50年、60年前の映画を選んで、じっくり、ゆっくり観てみるのもいいものだ。 昔の映画をもう一度観るということは、単に同じ映画を二度観ることではないのかもしれない。 映画を再発見するとともに、その映画を観ていたころの自分を振り返る。 そして、あのころには見えなかったものを、今の自分の目でもう一度見る。 映画は昔のままである。 けれども、観る自分は歳月とともに変わっている。 だから名画は、何十年経って観直しても、また新しい。 『アパートの鍵貸します』を観終えて、そんなことを思った。
2026.08.04
お盆休業のお知らせ 【休業期間】 令和8年8月12日(水)~8月14日(金)
- お盆休業のお知らせ
- 平素より弁護士法人高橋智法律事務所をご利用いただき、誠にありがとうございます。
- 誠に勝手ながら、当事務所は下記の期間をお盆休業とさせていただきます。
- 【休業期間】 令和8年8月12日(水)~8月14日(金)
- 休業期間中にいただきましたお問い合わせ(メール・お問い合わせフォーム等)につきましては、8月17日(月)以降、順次対応させていただきます。
- ご不便をおかけいたしますが、より良いリーガルサービスをご提供できるよう努めてまいりますので、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。
- 暑さ厳しき折、皆様におかれましては、どうぞ健やかにお過ごしください。
- 弁護士法人高橋智法律事務所
2026.08.02
「おおごとにしたくない」と思ったときこそ、専門家に相談してください・・・一月一言
~内容証明、調停、裁判は「紛争を大きくするもの」ではなく、「解決するための制度」です~
「弁護士に相談するほどのことではないと思います。」 「できれば大事にはしたくありません。」 「まずは内容証明を一本送ってもらえれば十分です。」 法律相談では、このようなお話を伺うことが少なくありません。 しかし、長年弁護士として多くの紛争に携わってきた経験から申し上げれば、このような考え方が、かえって問題を長引かせてしまうことがあります。弁護士に相談する時点で、すでに紛争は始まっています
「弁護士に依頼すると大事になる。」 そのように考える方は少なくありません。 しかし、冷静に考えてみると、弁護士に相談しようかと悩むほどの状況になっている時点で、すでに紛争は始まっています。 弁護士に依頼したから問題が大きくなるのではありません。 問題が大きくなっているからこそ、弁護士への相談を考える状況になっているのです。 これは、火事が起きているにもかかわらず、 「消防車を呼んだら大事になるから呼ばない。」 と言っているのと同じです。 消防車が火事を大きくするのではありません。火事が起きているから消防車が必要なのです。 法律問題も同じです。 弁護士は紛争を大きくする存在ではなく、できるだけ早く鎮静化し、適切に解決へ導くために存在しています。法律は「解決の物差し」です
紛争の多くは、「自分が正しい」「相手が間違っている」という感情の対立から始まります。 しかし、感情だけでは解決できません。 そこで用いられるのが法律です。 法律は、紛争を解決するための「物差し」です。 例えば、二人が「どちらの取り分が多いか」で争っているとします。 感情だけで話し合えば結論は出ません。 しかし、「重さで分けましょう」「市場価格で評価しましょう」という共通の基準があれば、話し合いは前へ進みます。 相続には相続法という物差しがあり、離婚には財産分与や慰謝料を判断する物差しがあります。 弁護士の仕事は、その物差しを使って依頼者と一緒に解決への道筋を考えることです。「内容証明一本で解決する」という時代ではありません
依頼者の方から、 「内容証明を一本送ってください。」 と依頼されることがあります。 いわば「内容証明神話」です。 私が弁護士になったばかりの頃、先輩弁護士からこんな話を聞かされたことがあります。 「内容証明を送って相手方の夫を事務所へ呼び出し、厳しく説諭したところ、その場で離婚が成立した。」 当時は、そのようなこともあったのでしょう。 確かに、かつては弁護士名で内容証明郵便が届けば、相手方が事態を重く受け止め、速やかに対応するケースも少なくありませんでした。 しかし、現在では事情が大きく変わっています。 特殊詐欺などの影響もあり、「本当に弁護士から送られたものなのだろうか」と疑われることさえあります。 また、「裁判になったら考えよう」と受け止める相手方も珍しくありません。 内容証明郵便そのものに相手方へ支払いや謝罪を強制する効力はありません。 証明できるのは、「いつ」「誰に」「どのような内容の文書を送ったか」という事実です。 もちろん重要な法的手段ではありますが、それだけで事件が解決するとは限らないのです。内容証明は「最初の一手」にすぎません
実際、「内容証明は送ったのですが、その後どうしたらよいのでしょうか。」という相談を受けることがあります。 そのような場合、内容証明を送ること自体が目的になってしまっています。 しかし、本来重要なのは、その後です。 相手方が応じなければどうするのか。 交渉を続けるのか、調停を申し立てるのか、訴訟を提起するのか。 内容証明はゴールではありません。 解決に向けたスタートラインなのです。 だからこそ、まず弁護士に相談し、事件全体の見通しを立てた上で、必要であれば内容証明を送り、その先の交渉や調停、訴訟まで見据えた戦略を立てることが重要になります。裁判を恐れる必要はありません
「裁判にはなりたくありません。」 これも法律相談でよく耳にする言葉です。 もちろん、裁判は誰にとっても望ましいものではありません。 しかし、裁判は人を困らせるための制度ではありません。 困っている人を救済するために、社会が整備した制度です。 特に調停は、一般の方がイメージされるような厳しい手続とは異なります。 非公開で行われるためプライバシーが守られ、裁判所の調停委員が双方の話を丁寧に聞きながら、合意による解決を目指します。 費用も比較的低額で利用することができます。 社会は、多くの税金を投入して、このような紛争解決制度を整備しています。 必要な場面でこれらを利用することは、決して特別なことではありません。制度を利用することは、弱さではありません
このことを考えるたびに、私は介護保険制度を思い浮かべます。 長年介護保険料を支払ってきたにもかかわらず、 「まだ自分は年寄りではない。」 「デイサービスには行きたくない。」 そう言って利用を拒み続ける方は少なくありません。 しかし、その制度は、困ったときに利用するために存在しています。 利用することは、恥ずかしいことでも、負けでもありません。 法律も同じです。 弁護士に相談することも、調停を申し立てることも、裁判を利用することも、自分の権利を守るために社会が用意した制度を適切に活用しているだけなのです。おわりに
弁護士の仕事は、内容証明を一本書くことではありません。 依頼者のお話を丁寧に伺い、法律という物差しを用いて問題を整理し、交渉、調停、訴訟まで見据えた解決への道筋を設計することです。 社会には、困っている人を支えるために、多くの制度が用意されています。 弁護士への相談、内容証明、調停、裁判──これらは、紛争を大きくするための制度ではありません。紛争を適切に解決するための制度です。 制度を恐れて利用をためらうよりも、必要なときに適切に活用することが、問題を最も早く、そして最も穏やかに解決する近道です。 一人で抱え込まず、まずは専門家に相談してください。 その一歩が、解決への第一歩になるはずです。2026.07.24
競争の公平性を考える ・・・プロ野球のペナントレースをみて・・・一月一言
― 競争の公平性について考える ―
私は、スポーツを見ることも、自分でプレーすることも好きです。 プロ野球を観戦し、休日には草テニスの大会にも参加しています。 そして弁護士としては、医療事故や交通事故などで、巨大な病院や企業、保険会社を相手に、患者さんや被害者の代理人を務めることが少なくありません。 一見すると全く別の世界ですが、私の中では一本の共通した考え方があります。 それは、 「勝者は、敗者によって支えられている。」 ということです。ソフトバンクは強い
今シーズンのパ・リーグは、ソフトバンクホークスが独走態勢に入りつつあります。 近藤健介選手、山川穂高選手、モイネロ投手、オスナ投手……。資金力を背景に戦力を整え、育成制度も充実させ、圧倒的な戦力を築き上げています。 その企業努力と経営手腕は、高く評価されるべきでしょう。 しかし、私は以前から一つ疑問を抱いています。 リーグ全体として、本当にこれでよいのでしょうか。夢を見ることができるのは春だけなのか
ソフトバンクファンにとっては、これほど幸せな時代はないでしょう。 しかし、ソフトバンクファン以外の多くのファンが一年で最も幸せを感じるのは、キャンプやオープン戦の時期ではないでしょうか。 「今年こそ優勝できる。」 「若手が育ってきた。」 「新外国人が活躍してくれるかもしれない。」 開幕前には、どの球団のファンも平等に夢を見ることができます。 ところが、シーズンが始まり、交流戦が終わり、オールスターが近づく頃には、その夢は少しずつしぼみ始めます。 「今年もソフトバンクか。」 そんな空気が漂い始めることが、リーグ全体にとって本当に幸せなことなのか、私は疑問に思います。強者がいることと、競争が面白いことは違う
スポーツは、強い者が勝つ世界です。 しかし、強者だけが勝ち続ける世界は、必ずしも面白い世界ではありません。 だからこそ、パ・リーグはかつて前後期二シーズン制を導入し、現在はクライマックスシリーズを採用しています。 世界にはサラリーキャップ制度や完全ウェーバー方式を導入しているリーグもあります。 いずれも、「競争を面白くする」ための制度です。 リーグ運営とは、最強のチームを決めることだけではありません。 六球団すべてのファンが最後まで夢を持てる環境を整えることも、大切な役割ではないでしょうか。優勝を目指さない球団にも課題がある
もっとも、制度だけを議論すればよいわけではありません。 球団側にも責任があります。 資金力の差はあるとしても、優勝を本気で目指しているのか疑問を抱かせる球団が存在することも否定できません。 競争は、挑戦する者がいて初めて成立します。 もし、経営の安定だけを優先し、優勝を目指す努力が十分でない球団があるとすれば、それもまたリーグの魅力を損なう要因になります。 将来的には、一部・二部リーグ制や昇降格制度のように、球団経営にも適度な緊張感を与える制度を議論する余地があるのかもしれません。裁判もまた、公平な競争である
法律家として、この問題は「競争の公平性」の問題として考えています。 もし裁判が、「お金を多く払って有名な弁護士を雇えば必ず勝てる」という制度だったらどうでしょう。 そんな裁判制度を、誰も信用しなくなるでしょう。 裁判は、証拠と法律に基づいて判断されるからこそ、公正な制度として社会から信頼されています。 もちろん、優秀な弁護士ほど良い結果を導く可能性は高くなります。 しかし、それは「お金で勝敗を買う」ということとは本質的に異なります。 スポーツも同じではないでしょうか。 資金力は重要です。 しかし、資金力だけで長期間にわたり勝敗がほぼ決まるような構造になれば、競争そのものへの期待は次第に失われていきます。私が大リーグに惹かれない理由
私自身、大リーグをあまり見ることがありません。 もちろん、大谷翔平選手をはじめ、世界最高峰のプレーには心から敬意を抱いています。 しかし、リーグ全体を見ると、球団による資金力の差があまりにも大きく、「お金をかけた者が勝つ」という色彩が強く感じられます。 そのような競争には、どうしても心が躍りません。 私は、挑戦者にも勝機がある競争の方に魅力を感じます。草テニスが教えてくれたこと
この考え方は、私が参加している草テニス大会でも変わりません。 大会では、優勝者や上位入賞者に賞品が贈られることが少なくありません。 もちろん、その実力は称えられるべきです。 しかし、その賞品の原資は、参加者全員が支払った参加費です。 優勝者が存在できるのは、多くの参加者が試合をし、敗者となってくれたからです。 敗者がいなければ、勝者も存在しません。 私は以前から、実力者が参加費によって集められた賞品を受け取ることに、少し違和感を抱いていました。 草大会の目的は、プロのように賞金を争うことではありません。 スポーツを楽しみ、人と交流することです。 それならば、勝者には表彰状やトロフィーという名誉を贈り、賞品は抽選会や参加賞として参加者全体に還元する方が、大会本来の目的にかなっているように思います。弱い立場の人を支える仕事
私が患者側の代理人を務めることが多いのも、偶然ではないのでしょう。 巨大病院や企業、保険会社と向き合う依頼者は、多くの場合、社会的にも経済的にも弱い立場にあります。 私は、そのような方々とともに歩み、強い相手に挑む仕事をしてきました。 だからでしょうか。 スポーツを見ても、自然と挑戦者を応援してしまいます。 強者を倒そうとする姿に、人は心を動かされるのではないでしょうか。おわりに
私は、勝者を否定しているのではありません。 勝者には、その努力と実力に対して最大限の敬意を払います。 しかし、勝者だけが競争をつくっているのではありません。 敗れた人、挑戦した人、参加した人がいて、初めて勝者が存在します。 競争とは、勝者だけのものではないのです。 だから私は、スポーツでも、裁判でも、社会でも、「競争の公平性」を大切にしたいと思っています。 そして、もう一つ、大切にしたいことがあります。 挑戦する者が報われる社会であってほしい。 それは、必ずしも勝利や優勝だけを意味するものではありません。 力の差があっても挑戦することに価値があり、その努力が尊重され、「来年こそは」「次こそは」という希望を持ち続けられる社会であってほしいということです。 私は弁護士として、多くの患者さんや交通事故の被害者など、社会的に弱い立場に置かれた方々とともに歩んできました。 その方々に共通していたのは、強い相手だからといって諦めず、一歩を踏み出した「挑戦者」であったということです。 私は、そのような挑戦者を支える仕事に誇りを持っています。 だからこそ、スポーツでも、裁判でも、社会でも、挑戦する者に夢があり、希望があり、その努力が正当に報われる仕組みであってほしいと願っています。 勝者は、敗者によって支えられています。 そして、社会は、挑戦し続ける人たちによって前へ進んでいきます。 私は、そのような社会であってほしいと心から願っています。2026.07.05

