お知らせ

2026.09.14

張本勲と中島卓也――自分の「勝ち方」、そして事件の「終わらせ方」   一月一言

  • 野球を見ていると、ときどき、これは仕事にも人生にも通じる話だと思うことがあります。最近、張本勲さんと北海道日本ハムファイターズの中島卓也さんという、二人の左打者について考える機会がありました。二人の打撃方法は、ずいぶん違います。 しかし、その違いを考えているうちに、 自分の長所をどう生かすか。 自分の弱点とどう付き合うか。 そして、自分に合った方法をどう選ぶか。 ということについて、二人はそれぞれ違う方法で一つの答えを示しているように思えてきました。 そしてこれは、私たち弁護士の仕事にも通じる話だと思います。

    張本勲――一本を取り続けた人

    張本勲さんは、日本プロ野球史上ただ一人、3000安打を超えた打者です。 通算3085安打。 しかも504本塁打、319盗塁。シーズン3割を16回記録した、日本野球史上屈指の打者です。 張本さんの打法は「扇打法」と呼ばれました。 すり足でタイミングを取り、柔らかなバットコントロールで広角に打ち分ける。 単にボールを強く打つのではなく、どこへ打てばヒットになるのかを知り尽くしていた打者だったのでしょう。 私は張本さんについて考えていると、いつも次のようなことを思います。 試合が決まったから、この打席はいい。 今年は優勝できないから、今日はいい。 3000本を打ったから、もういい。 張本さんには、そういう「もういい」が非常に少なかったのではないでしょうか。 目の前に一打席がある。 それなら、一本を取りに行く。 昨日一本打ったから、今日はいい、ではない。 3000本打ったから、もういい、でもない。 その積み重ねが3085本になったのでしょう。 自分に与えられた最大の長所を知り、それを誰にも届かないところまで磨く。 一つの生き方だと思います。

    中島卓也――「飛ばない」ことから生まれた打法

    一方、中島卓也さんは、まったく違うタイプの打者です。 中島さんには、張本さんのような長打力はありません。 プロ野球選手としては小柄で、ホームランを量産する選手でもありませんでした。 そこで、中島さんが磨いたのが「ファウルを打つ」という技術でした。 2ストライクに追い込まれると、発想そのものを変える。 ヒットを打とうとするのではなく、ファウルを打つ。 ボールをぎりぎりまで引きつけ、三塁側へ逃がす。 もう一球、投手に投げさせる。 またファウル。 また一球。 そして最後には四球で一塁へ出る。 2016年には759本ものファウルを打ち、その大部分が三塁方向だったといいます。 これは単なる「振り遅れ」ではありません。 ファウルを、一つの技術にしてしまった。 しかも、一塁へ出れば足があります。 2015年には34盗塁で盗塁王になっています。 守備でも、遊撃手として広い守備範囲と確実性を備えていました。 ホームランを打たなくても、 ファウルで粘る。 四球を選ぶ。 塁に出れば走る。 守ればアウトを取る。 そうやって、自分の仕事を作っていった選手です。  

    張本さんと中島さん――正反対の二人

    二人は正反対です。 張本さんは、 「打てる」という圧倒的な長所を、誰にも到達できないところまで磨いた。 中島さんは、 「飛ばせない」という弱点を認め、それでも生き残れる方法を、誰にも真似できないところまで磨いた。 しかし、最後には同じところへ行き着いたように思います。 自分が何者なのかを知ること。 できることを知る。 できないことも知る。 そのうえで、 「では、自分はどうするのか」 を考える。 張本さんが中島さんの真似をする必要はない。 中島さんが張本さんになろうとする必要もない。 それぞれが、自分の野球をすればよいのです。

    法律事務所にも、それぞれの仕事の仕方がある

    これは法律事務所にも当てはまると思います。 世の中には、何百人もの弁護士が所属し、立派な建物にオフィスを構え、国内外に多くの拠点を持つ法律事務所があります。 私の事務所は、そのような規模や建物の立派さで勝負する事務所ではありません。 弱点もあります。 できないこともあります。 それでよいと思っています。 では、私たちは何で仕事をするのか。 長く弁護士をしてきて、私たちが比較的自信を持っていることがあります。 それは、 「この事件にとって、どのような解決が一番よいのか」を見極めること。 そして、 「その解決を実現するためには、どのような手段を選ぶべきか」を判断すること。 です。

    事件を「どこへ連れていくか」

    同じように見える事件でも、一つとして同じ事件はありません。 法律関係が似ていても、証拠が違います。 相手方が違います。 当事者の性格も違います。 人間関係も違います。 そして何より、依頼者が求めているものが違います。 だから、法律を知っているだけでは解決方針は決まりません。 この事件は、どこまで行けるのか。 何を取るべきなのか。 何をあえて捨てるべきなのか。 今動くべきなのか。 少し待つべきなのか。 交渉なのか。 調停なのか。 訴訟なのか。 徹底して争うのか。 早く終わらせるのか。 争点を広げるのか。 一点に絞るのか。 私たちが経験の中で培ってきたものがあるとすれば、 「この事件を、どこへ連れていくのがよいのか」 という見極めなのだと思います。

    勝つことだけが「解決」ではない

    ここまで「勝負」「勝ち方」という言葉を使ってきました。 しかし、弁護士の仕事についていえば、私は勝利至上主義ではありません。 もちろん、勝たなければならない事件はあります。 依頼者の権利を守るために、一歩も退かず、判決まで求めるべき事件もあります。 しかし、それだけが解決ではありません。 法律問題の背後には、人間がいます。 夫婦がいる。 親子がいる。 兄弟姉妹がいる。 長年付き合ってきた取引先がいる。 同じ職場で働いてきた人がいる。 そこには、法律だけでは割り切れない感情や歴史があります。 その複雑な人間関係を一つ一つ整理して、 双方が完全には満足しなくても、これ以上傷つかず、それぞれが次へ進める地点を探す。 いわば、 「引き分けに持っていく」。 それも、立派な解決です。 むしろ、双方が「勝った」と主張していつまでも争い続けるより、上手に引き分けて紛争を終わらせる方が、はるかに難しい事件さえあります。

    懸命に戦って、負けることも立派な解決である

    もう一つあります。 弁護士がどれほど懸命に仕事をしても、すべての裁判に勝てるわけではありません。 証拠が足りない。 医学的な因果関係を証明できない。 実際にはそうであったとしても、裁判という制度の中では立証できない。 そういうことがあります。 しかし、それでも戦う意味のある事件があります。 依頼者の言い分をきちんと主張する。 調べるべきことを調べる。 集められる証拠を集める。 専門家にも意見を求める。 相手方の主張に反論する。 そして、裁判所の判断を求める。 できることを尽くして、それでも負ける。 それもまた、立派な解決だと思っています。 「言うべきことは言った」 「調べるべきことは調べた」 「できることはやった」 「そして第三者である裁判所の判断を受けた」 そこまで行くことによって、初めて一区切りをつけ、次の人生へ進める人もいるからです。 勝敗だけでは測れないものが、紛争解決にはあります。

    自分に非があるときにも、弁護士の仕事はある

    そして、弁護士のところへ来られる方が、いつも法律的に「正しい側」にいるわけでもありません。 例えば、不貞をしてしまい、慰謝料を請求されて困っている。 自動車保険が切れているときに交通事故を起こしてしまい、多額の損害賠償を求められている。 契約上、自分に責任があることは分かっている。しかし、請求された金額を一括して支払うことはできない。 そういう相談もあります。 このような事件で、責任そのものを無理に否定し、「何とかして勝とう」とすることがよい解決とは限りません。 責任があるのであれば、それを踏まえる。 そのうえで、 「では、この問題をどうすればきちんと終わらせることができるのか」 を考えます。

    あえて、こちらから調停を申し立てる

    場合によっては、請求されるのを待つのではなく、こちらから裁判所に調停を申し立てることもあります。 責任から逃げるためではありません。 むしろ逆です。 「負うべき責任から逃げるつもりはありません。しかし、現実に可能な方法で解決したい」 と、こちらから話合いの場を作るのです。 例えば不貞の問題であれば、責任の有無をいたずらに争うのではなく、慰謝料額や支払方法、今後の関係などを整理して紛争を終わらせる。 無保険で交通事故を起こしてしまったのであれば、損害額をきちんと確認し、負うべき賠償責任を整理したうえで、現実に履行できる支払方法を話し合う。 相手方との直接交渉では感情的対立が強すぎるのであれば、裁判所の調停委員という第三者に入ってもらう。 「訴えられるのを待つ」のではなく、自分から解決の場を作る。 そういう道もあるのです。 もちろん、すべての事件で調停が適切なわけではありません。 交渉の方がよい事件もあれば、訴訟になってから解決すべき事件もあります。 ここでも大切なのは、調停という手段そのものではありません。 その事件に合った手段を選ぶことです。

    弁護士は「勝てる人」だけのためにいるのではない

    私は、このことはもっと知られてよいと思っています。 自分が悪かった。 失敗してしまった。 取り返しのつかないことをしたかもしれない。 相手から突然請求書が届いた。 どうしたらよいか分からない。 そのようなときに、 「自分が悪いのだから、弁護士に相談しても仕方がない」 と思う必要はありません。 弁護士は、「正しい人」を勝たせるためだけにいるわけではありません。 責任があるのであれば、どこまで責任を負うべきなのかを整理する。 負うべき責任は負う。 しかし、負う必要のない責任まで負わない。 必要であれば謝罪する。 現実に履行できる支払方法を考える。 場合によってはこちらから調停を申し立て、相手方にも納得してもらえる出口を探す。 「勝つ」のではなく、「きちんと終わらせる」。 それが最良の解決である事件もあります。

    ホームランだけが野球ではない

    ここで、もう一度、中島卓也さんに戻ります。 ホームランを打てない。 だったら、ホームランを打てる選手の真似をする必要はない。 ファウルにする。 もう一球投げさせる。 またファウルにする。 四球を選ぶ。 塁に出たら走る。 守備では確実にアウトを取る。 中島さんは、野球というゲームの中に、自分が価値を生み出せる別の道を見つけた選手だったのだと思います。 法律問題も同じです。 訴訟を起こして全面勝訴することだけが、弁護士の仕事ではありません。 ときには強く戦う。 ときには粘る。 ときにはこちらから頭を下げる。 ときには相手にも少し譲ってもらい、こちらも少し譲る。 ときには、こちらから調停を申し立てる。 そして双方が、 「これで、この問題は終わりにしましょう」 と言える地点を探す。 ホームランではないかもしれません。 ヒットですらないかもしれません。 しかし、中島さんのファウルや四球がチームにとって価値を持ったように、 その事件にとっては、それが最も価値のある解決であることがあります。

    一点、光る法律事務所でありたい

    私の事務所は、大規模な法律事務所ではありません。 立派な建物や大人数の組織を武器にすることもできません。 弱点もあります。 何でもできるわけでもありません。 しかし、それでよいと思っています。 私たちが目指しているのは、「必ず勝つ法律事務所」ではありません。 そもそも、そんなことを約束できる弁護士はいません。 私が目指したいのは、 「この事件にとって、何が一番よい解決なのかを考え抜く法律事務所」 です。 そして、その解決を実現するために、経験に裏付けられた方法を選ぶ。 勝つべき事件なら、勝つために戦う。 引き分けるべき事件なら、複雑に絡んだ人間関係を一つ一つほどき、双方が前へ進める地点を探す。 こちらに責任がある事件なら、責任を踏まえたうえで、穏当な解決への道を探す。 そして、戦うべき事件なら、たとえ負ける可能性があっても、できることを尽くして戦う。 勝つ。 引き分ける。 責任を受け入れて、穏当に終わらせる。 懸命に戦って、負ける。 そのいずれも、依頼者にとって意味があるなら、立派な解決になり得ます。 大切なのは、どれを選ぶかです。 張本さんのように、一本を取りに行くべきときには、一本を取りに行く。 中島さんのように、簡単にはアウトにならず、ファウルで粘るべきときには粘る。 そして、ときには勝敗そのものから離れて、試合をきちんと終わらせる方法を探す。 その事件を、どこへ連れていくべきなのか。 そのためには、どの道を選ぶべきなのか。 その見極めには、法律の知識だけではなく、これまで経験してきた数多くの事件――うまくいった事件も、思うようにならなかった事件も含めて――が生きてくると思っています。     。
2026.09.11

「もういい」がなかった人――張本勲さんを偲んで  一月一言

  • 史上、唯一の3,000本安打達成者である。この数字だけでも十分に偉大である。しかし、張本さんについて改めて調べているうちに、私には3,085という数字とは別のところに、この人の凄さがあったのではないかと思えてきた。それは、張本さんには、人生の中で「もういい」が非常に少なかったのではないか、ということである。
     

「もういい」がなかった

野球は長い。一試合の中にも、シーズンの中にも、そして20年以上に及ぶ現役生活の中にも、いくらでも気持ちを抜く理由がある。 試合が決まったから、この打席はいい。 今年は優勝できないから、今日はいい。 3,000本を打ったから、もういい。 張本さんには、そういう「もういい」が非常に少なかったのではないだろうか。3,085本という記録は、華々しい一打だけでできたものではない。優勝争いの天王山で打った一本もあれば、大差で負けている試合で打った一本もあっただろう。チームが下位に沈み、優勝の可能性がほとんどなくなった季節に打った一本もあったはずである。記録上は、すべて同じ「1安打」である。しかし、その一本を20年以上にわたって積み重ねるためには、選手自身が、一見意味のないように見える打席にも意味を見いだし続けなければならない。張本さんの凄さは、そこにあったのではないかと思う。      

弱いチームで打ち続けるということ

張本さんは、現役生活の大部分を東映フライヤーズ、その後の日拓ホーム、日本ハムで過ごした。 もちろん優勝した年もある。しかし、長嶋茂雄さんや王貞治さんのように、毎年のように優勝を求められる巨人で現役生活の大部分を過ごしたわけではない。 これは、安打数を積み重ねるうえでは、絶対的な中心選手として試合に出続けられるという利点があったのかもしれない。 しかし、私はむしろ逆のことを考える。 優勝争いをしているから頑張れる、というのは分かりやすい。 満員の観客がいる。日本シリーズが待っている。新聞の一面になる。目の前に大きな目標がある。 しかし、優勝の可能性がなくなっても、今日の第一打席に集中する。明日も球場へ行く。そして一本を取りにいく。 こちらの方が、ある意味では難しいのではないだろうか。 3,085本の中には、誰も覚えていない安打が何千本もある。 しかし、誰も覚えていない一本を疎かにしなかったからこそ、3,085本になったのである。 *****

504本塁打の陰にある「319盗塁」

そして、張本さんについて、あまりスポットライトの当たらない数字がある。 通算319盗塁。 私は、この数字を改めて知って驚いた。張本さんは3,085安打を打っただけではない。通算504本塁打を記録している。生涯打率も3割1分9厘を超える。それほどの大打者が、319回も盗塁しているのである。500本塁打と300盗塁をともに達成した日本プロ野球選手は、張本さんだけである。ホームランを500本も打つ選手であれば、塁に出た後まで無理をして走る必要はない、と考えても不思議ではない。しかし、張本さんは走った。『サンデーモーニング』で若い選手の走塁に厳しかったことを覚えている方も多いと思う。今になって319という数字を見ると、あの厳しさの意味が少し違って見えてくる。「なぜ次の塁を狙わないんだ」という言葉の後ろには、「自分は狙ったぞ」という自負があったのではないだろうか。  

『巨人の星』で知ったタイ・カッブとの共通性

私は子供のころ、『巨人の星』でタイ・カッブの逸話を知った記憶がある。試合が一方的な展開になっても、カッブは安打を狙い、塁に出れば盗塁まで狙ったという話である。勝敗がほぼ決まっているからといって、手を抜かない。打席に立った以上は打つ。塁に出た以上は次の塁を狙う。子供心に、その執念が強く印象に残った。張本さんの3,085安打と319盗塁を見ていると、私はこのタイ・カッブの話を思い出す。勝つ可能性があるから全力を尽くすのではない。自分がグラウンドに立っている以上、全力を尽くす。この二つは似ているようで、実は大きく違う。  

生かされた命

そして、張本さんの「もういい」がなかった人生を考えるとき、避けて通れないことがある。原爆である。 張本さんは5歳のとき、広島で被爆した。爆心地から約2キロ。自宅が比治山の陰にあったことなどが幸いし、張本さんは生き残った。しかし、大好きだった姉はそうではなかった。勤労奉仕に出ていた姉は被爆し、変わり果てた姿で家に運ばれてきた。幼い張本さんは、その姉が苦しみながら亡くなっていく姿を見ている。ほんの少し場所が違えば、自分が死んでいたかもしれない。自分は生き、姉は死んだ。さらに張本さんには、幼少時の火傷による右手の障害があった。在日韓国人として生きることによる苦労もあった。それでも、それらを言い訳にはしなかった。むしろ現役時代には、被爆者であることさえ長く公にしなかった。「生かされた」という思いを張本さんがどのような言葉で自分の中に置いていたのか、他人である私には分からない。また、「姉の分まで生きる」と明確に語っていたと断定することもできない。しかし、5歳でその光景を見た人間にとって、「今日を生きている」ということの重みが、私たちと全く同じであったとは思えない。だから私は、3,085本という数字を見るとき、 「生きている以上は、今日も打つ」 という張本さんの声が聞こえるような気がするのである。  

大沢親分との出会い

そんな張本さんも、現役引退後は、必ずしも誰からも親しまれる存在ではなかったように思う。偉大な記録を持ち、プライドが高く、言うべきことをはっきり言う。時には、周囲から煙たがられる存在でもあったのではないだろうか。 その張本さんの印象を大きく変えたのが、『サンデーモーニング』だった。そして何より、大沢啓二さんとの出会いだったと思う。「大沢親分」の隣に座ると、不思議なことに張本さんが「弟分」になった。あれほど気の強い張本さんが、大沢さんの横では笑い、時にはたしなめられ、二人で「喝!」を入れる。そこには、現役時代の大打者・張本勲とは違う、愛嬌のある「張さん」がいた。人は、60歳近くになっても変わるのだと思う。あるいは、変わったのではなく、それまで外からは見えなかった部分を、大沢さんが引き出したのかもしれない。 人間には、自分一人では出せない表情がある。それを引き出してくれる人との出会いがある。大沢さんとの出会いがなければ、私たちが知っている晩年の「張さん」は、少し違う人だったかもしれない。  

王貞治さんへの敬意

もう一つ、張本さんを見ていて印象的だったのは、王貞治さんへの敬意である。二人は同じ1940年生まれで、同じ1959年にプロ入りした。普通なら最大のライバルである。しかし、張本さんは王さんについて語るとき、本当に敬意を隠さなかった。王さんもまた、中国出身の父を持ち、日本で生まれ育ちながら、国籍の問題など、当時の日本社会の中で複雑な経験をしている。二人にしか分からないものがあったのかもしれない。そして王さんは、選手として868本塁打を打っただけではない。引退後には監督として人を育て、チームを率い、日本代表を率いて世界一にもなった。張本さんにはなかった第二の野球人生を、王さんは歩いた。同い年だからこそ、張本さんには、その凄さが誰よりも分かったのではないだろうか。本当に強い競争心を持った人間は、時として、本当に強い相手を素直に認めることができる。二人の関係を見ていると、そんなことを思う。

「もういい」と思わないこと

法律事務所の仕事をしていると、野球とは全く違う世界ではあるが、「もういい」と思いたくなる場面はいくらでもある。事件が思うように進まない。こちらの主張がなかなか理解されない。資料を読み返しても、新しいものが見つからない。相手方の主張に何度反論しても、同じ議論が繰り返される。そんなとき、「ここまでやったのだから、もういいだろう」と思うことがある。しかし、依頼者にとって、その事件は人生に一度の事件かもしれない。こちらにとって何百件のうちの一件であっても、その人にとっては一件しかない。誰も気づかないかもしれない。結果に影響しないかもしれない。それでも裁判所に直接訴えかける。考えてみれば、3,085本という記録も、そのような「誰も覚えていない一本」の積み重ねだったのではないだろうか。華やかなホームランだけが野球ではない。スポットライトの当たらない盗塁もある。 優勝とは関係のない試合の安打もある。そして人生には、一人で頑張るだけではなく、大沢親分のような人との出会いもある。 「もういい」と思わず、今日の一つをきちんとやること。 そして、自分を変えてくれる人との出会いを大切にすること。 張本勲さんの長い人生を振り返って、私はそんなことを考えた。 3,085本の安打のうち、私たちが映像で覚えているものは、ほんのわずかである。 しかし、誰も覚えていない一本がなければ、3,085本にはならない。人生も仕事も、案外そういうものなのかもしれない。  
2026.08.02

「おおごとにしたくない」と思ったときこそ、専門家に相談してください・・・一月一言

~内容証明、調停、裁判は「紛争を大きくするもの」ではなく、「解決するための制度」です~

「弁護士に相談するほどのことではないと思います。」 「できれば大事にはしたくありません。」 「まずは内容証明を一本送ってもらえれば十分です。」 法律相談では、このようなお話を伺うことが少なくありません。 しかし、長年弁護士として多くの紛争に携わってきた経験から申し上げれば、このような考え方が、かえって問題を長引かせてしまうことがあります。

弁護士に相談する時点で、すでに紛争は始まっています

「弁護士に依頼すると大事になる。」 そのように考える方は少なくありません。 しかし、冷静に考えてみると、弁護士に相談しようかと悩むほどの状況になっている時点で、すでに紛争は始まっています。 弁護士に依頼したから問題が大きくなるのではありません。 問題が大きくなっているからこそ、弁護士への相談を考える状況になっているのです。 これは、火事が起きているにもかかわらず、 「消防車を呼んだら大事になるから呼ばない。」 と言っているのと同じです。 消防車が火事を大きくするのではありません。火事が起きているから消防車が必要なのです。 法律問題も同じです。 弁護士は紛争を大きくする存在ではなく、できるだけ早く鎮静化し、適切に解決へ導くために存在しています。

法律は「解決の物差し」です

紛争の多くは、「自分が正しい」「相手が間違っている」という感情の対立から始まります。 しかし、感情だけでは解決できません。 そこで用いられるのが法律です。 法律は、紛争を解決するための「物差し」です。 例えば、二人が「どちらの取り分が多いか」で争っているとします。 感情だけで話し合えば結論は出ません。 しかし、「重さで分けましょう」「市場価格で評価しましょう」という共通の基準があれば、話し合いは前へ進みます。 相続には相続法という物差しがあり、離婚には財産分与や慰謝料を判断する物差しがあります。 弁護士の仕事は、その物差しを使って依頼者と一緒に解決への道筋を考えることです。

「内容証明一本で解決する」という時代ではありません

依頼者の方から、 「内容証明を一本送ってください。」 と依頼されることがあります。 いわば「内容証明神話」です。 私が弁護士になったばかりの頃、先輩弁護士からこんな話を聞かされたことがあります。 「内容証明を送って相手方の夫を事務所へ呼び出し、厳しく説諭したところ、その場で離婚が成立した。」 当時は、そのようなこともあったのでしょう。 確かに、かつては弁護士名で内容証明郵便が届けば、相手方が事態を重く受け止め、速やかに対応するケースも少なくありませんでした。 しかし、現在では事情が大きく変わっています。 特殊詐欺などの影響もあり、「本当に弁護士から送られたものなのだろうか」と疑われることさえあります。 また、「裁判になったら考えよう」と受け止める相手方も珍しくありません。 内容証明郵便そのものに相手方へ支払いや謝罪を強制する効力はありません。 証明できるのは、「いつ」「誰に」「どのような内容の文書を送ったか」という事実です。 もちろん重要な法的手段ではありますが、それだけで事件が解決するとは限らないのです。

内容証明は「最初の一手」にすぎません

実際、「内容証明は送ったのですが、その後どうしたらよいのでしょうか。」という相談を受けることがあります。 そのような場合、内容証明を送ること自体が目的になってしまっています。 しかし、本来重要なのは、その後です。 相手方が応じなければどうするのか。 交渉を続けるのか、調停を申し立てるのか、訴訟を提起するのか。 内容証明はゴールではありません。 解決に向けたスタートラインなのです。 だからこそ、まず弁護士に相談し、事件全体の見通しを立てた上で、必要であれば内容証明を送り、その先の交渉や調停、訴訟まで見据えた戦略を立てることが重要になります。

裁判を恐れる必要はありません

「裁判にはなりたくありません。」 これも法律相談でよく耳にする言葉です。 もちろん、裁判は誰にとっても望ましいものではありません。 しかし、裁判は人を困らせるための制度ではありません。 困っている人を救済するために、社会が整備した制度です。 特に調停は、一般の方がイメージされるような厳しい手続とは異なります。 非公開で行われるためプライバシーが守られ、裁判所の調停委員が双方の話を丁寧に聞きながら、合意による解決を目指します。 費用も比較的低額で利用することができます。 社会は、多くの税金を投入して、このような紛争解決制度を整備しています。 必要な場面でこれらを利用することは、決して特別なことではありません。

制度を利用することは、弱さではありません

このことを考えるたびに、私は介護保険制度を思い浮かべます。 長年介護保険料を支払ってきたにもかかわらず、 「まだ自分は年寄りではない。」 「デイサービスには行きたくない。」 そう言って利用を拒み続ける方は少なくありません。 しかし、その制度は、困ったときに利用するために存在しています。 利用することは、恥ずかしいことでも、負けでもありません。 法律も同じです。 弁護士に相談することも、調停を申し立てることも、裁判を利用することも、自分の権利を守るために社会が用意した制度を適切に活用しているだけなのです。

おわりに

弁護士の仕事は、内容証明を一本書くことではありません。 依頼者のお話を丁寧に伺い、法律という物差しを用いて問題を整理し、交渉、調停、訴訟まで見据えた解決への道筋を設計することです。 社会には、困っている人を支えるために、多くの制度が用意されています。 弁護士への相談、内容証明、調停、裁判──これらは、紛争を大きくするための制度ではありません。紛争を適切に解決するための制度です。 制度を恐れて利用をためらうよりも、必要なときに適切に活用することが、問題を最も早く、そして最も穏やかに解決する近道です。 一人で抱え込まず、まずは専門家に相談してください。 その一歩が、解決への第一歩になるはずです。
2026.07.05

司法のIT化が問いかけるもの――「便利さ」の先にある司法の未来 *** 一月一言

はじめに――IT化ありきの議論でよいのでしょうか

本日付の北海道新聞には、「弁護士が裁判所へ行く時間を節約できる」等、裁判手続のIT化を高く評価する記事が掲載されていました。 私は、この記事を読み、一抹の寂しさを覚えました。記事全体が、「司法のIT化は望ましい」という大前提の上に立って論じられており、その前提そのものを問い直す視点が見当たらなかったからです。もちろん、IT化によって裁判へのアクセスが改善され、時間や費用が節約されるという利点は否定できません。しかし、その一方で、司法のIT化に危惧を抱いている弁護士も少なくありません。報道機関には、IT化を推進する立場だけではなく、それに慎重な立場や反対する立場の弁護士や研究者の意見にも耳を傾け、多角的な視点から国民に問題提起をしていただきたいと思います。司法制度は、一度大きく形を変えてしまえば、簡単には元に戻せないからです。

IT化は「場所」という概念を変えた

私は、パソコンがスタンドアロンで利用されていた時代から、LAN、インターネット、そしてクラウドへと発展していく時代を経験してきました。現在では、自宅でも出張先でも事務所と変わらない仕事ができます。会社へ出勤しなくても仕事ができる時代です。職場へ行かなければ苦手な上司と顔を合わせなくても済みます。企業にとっても、「会社はどこにあってもよい」という考え方が当たり前になりつつあります。IT化とは、単に仕事の方法を変えたのではありません。「場所」という概念そのものを変えてしまったのです。

裁判所も「場所」でなくなるのか

この流れは、司法にも及んでいます。現在の民事裁判では、その気になれば、弁護士は一度も裁判所へ行くことなく、一度も裁判官や相手方代理人と直接顔を合わせることなく、判決まで事件を終えることができます。確かに便利です。しかし、その先にある未来を考えたことがあるでしょうか。現在でも、刑事事件を除けば、民事事件で弁護士が裁判所へ来る機会は著しく減っています。そうなると、弁護士控室も、和解室も、大きな待合スペースも必要なくなります。裁判所に必要なのは、裁判官の執務室とコンピュータ設備だけということになりかねません。そうなれば、地方裁判所支部は次々と廃止・統合され、まずは札幌へ集約されるでしょう。さらに進めば、東京に巨大な「メガ裁判所」を設置し、全国の事件を集中的に処理し、地方には最小限の窓口だけを置くという未来も十分考えられます。これは決して空想ではありません。現在、多くの企業では札幌支店を廃止し、本社へ機能を集約する動きが進んでいます。社員はインターネットを利用して仕事ができるのですから、企業としては合理的な判断です。しかし、裁判所は企業ではありません。地域社会に司法機関が存在すること自体に、大きな意味があるはずです。

私が今も裁判所へ足を運ぶ理由

私は、現在でも、できる限り裁判所へ足を運ぶようにしています。事務所を札幌地方裁判所から徒歩五分ほどの場所に構えているのも、そのためです。オンラインで済ませることもできます。しかし、それであれば、高い賃料を支払って裁判所の近くに事務所を借りる意味がありません。実際には、私より裁判所に近い場所に事務所を構えている弁護士であっても、ほとんど裁判所へ来なくなりました。往復わずか10分程度の時間を節約することが、本当に司法にとって大きな利益なのでしょうか。私は、節約できる時間以上に、失っているものの方がはるかに大きいと思っています。ちなみに、裁判所に足を運びたいと書記官の方に説明をしたら、私がITに対応できていない弁護士という前提でお話をしてくる方がいます。私は全てのITシステムに対応できますが、あえて、裁判所に出向いていますと都度説明をしています。

裁判所から「熱気」が消えた

最近、日中に裁判所へ行くと、その静けさに驚かされます。以前は、法廷前のホールには和解を待つ当事者や代理人があふれ、裁判所全体に独特の熱気がありました。依頼者は緊張した面持ちで期日を待ち、和解が成立すれば安堵の表情を浮かべる。代理人同士が廊下で議論を交わし、裁判官と何気ない会話を交わす。若い弁護士は、その空気の中で先輩弁護士の仕事を見て学び、裁判所という文化に触れながら成長していきました。裁判所は、単に事件を処理する施設ではありません。法曹三者が互いに顔を合わせ、信頼関係を築き、司法文化を育んできた場所でもあったのです。しかし、今、その光景はありません。ホールは閑散とし、人影もまばらです。かつての熱気は消え、まるで砂漠のような静けさが広がっています。私は、この変化を「効率化」という一言だけで片付けることはできません。

司法の直接主義が失われる

私は、一度も直接会ったことのない裁判官に、自分の依頼者の人生を左右する判断を委ねたいとは思いません。裁判とは、書類だけを読む作業ではありません。裁判官、当事者、代理人が同じ空間で事件に向き合い、その空気や緊張感も含めて真実を探究する営みです。 これこそが、司法における直接主義の本質ではないでしょうか。その価値は、効率性だけでは測ることができません。

AI裁判官の時代は来るのか

裁判官と直接会うこともなく、事件がすべてオンラインで処理されるようになれば、人々は裁判官がどのような人物なのかにも関心を持たなくなるでしょう。そうなれば、「AI裁判官」が事件を判断してもよいではないかという議論が現実味を帯びてきます。書面を読み、判例を検索し、法令を適用するだけであれば、AIの方が速く、正確かもしれません。しかし、裁判とは単なる情報処理ではありません。人が人を裁く制度だからこそ、人間の裁判官が存在する意味があるのです。

おわりに――便利さだけで司法を語ってはならない

私は、司法のIT化そのものを否定しているわけではありません。IT化によって、裁判を利用しやすくなり、時間や費用が節約されることは歓迎すべき改革です。しかし、その便利さの陰で失われるものについては、ほとんど議論されていません。地域に裁判所が存在する意味。 裁判官、当事者、代理人が直接向き合う意味。裁判所という空間が育んできた司法文化の意味。これらは、決して効率性だけでは評価できない価値です。司法は、単なる行政サービスではありません。人が人の人生を判断するという、国家の根幹を支える営みです。だからこそ、司法のIT化を礼賛するだけではなく、その光と影の双方を見据え、「私たちはどのような司法を次の世代に残すのか」を、今こそ真剣に議論すべき時期に来ているのではないでしょうか。
2026.05.24

裁判のIT化が変える「司法の地理」・・・一月一言

――北海道から見える、日本社会と司法の未来

先日、久しぶりに東京へ一泊の出張に行ってきました。 東京駅周辺は、平日にもかかわらず驚くほどの人の多さです。電車は満員に近く、飲食店には仕事帰りのサラリーマンたちが溢れ、大きな声で談笑している。地方都市とは異なる、独特の熱気と喧騒があります。

増え続ける外国人と、東京の「NY化」

その中で、特に印象的だったのは「外国人の多さ」です。 丸の内を歩いていると、オフィス街の中に、ごく自然に多くの外国人が溶け込んでいる。観光客というより、そこで働き、生活している人たちです。札幌で目にする外国人の数や雰囲気とは、明らかに次元が違います。 思い返せば、まだ日本に今ほど外国人が多くなかった時代、海外視察でローマやロンドンを歩いた際にも、似たような感覚を覚えました。 ロンドンには、典型的な「英国紳士」ばかりがいるわけではありません。目の色も肌の色も多種多様で、まさに「人種のるつぼ」という印象でした。 ニューヨークのような多様性です。 そして、10数年を経て、同じ現象が東京にも起きているのだと感じました。東京は今、急速に「NY化」しているのかもしれません。

日本特有の「東京一極集中」

もっとも、日本は依然として強い中央集権国家です。 大学も、大企業も、情報も、人材も、結局は東京に集まる。地方で育った若者たちは東京へ向かい、親は仕送りを続ける。その総額だけでも、莫大なものになるでしょう。 一方、ドイツを旅した際には、まったく異なる都市設計を感じました。 ベルリンは確かに首都ですが、日本の東京のような圧倒的一極集中ではありません。ミュンヘン、ハンブルク、フランクフルトなど、それぞれの地方都市が独自の魅力と経済圏を持っている。国家として、「集中しすぎない」構造が意識されているように思えます。

北海道からだからこそ見えるもの

東京にずっといると、日本全体が東京の延長線上にあるように感じるのかもしれません。 しかし、北海道から東京を見ると、別の現実が見えてきます。 人口減少、人手不足、事業承継、交通インフラ、医療や介護の問題――。地方では、東京とは異なる課題が日々進行しています。 法律実務でも同様です。 東京では当然とされる制度や商慣習が、地方ではそのまま機能しないこともあります。地方には地方の産業構造があり、人口動態があり、距離の問題があります。 だからこそ、北海道のような地方からの視点は重要なのだと思います。

裁判のIT化が変える「司法の地理」

そして今、その「東京一極集中」は、司法の世界でもさらに進もうとしています。 裁判のIT化です。 かつては、裁判をするためには、人間が裁判所へ行かなければなりませんでした。弁護士も、裁判官も、書記官も、当事者も、同じ場所に集まる必要があった。 しかし現在は、ウェブ会議による期日が増え、書面提出も電子化され、物理的に裁判所へ行く必要は急速になくなっています。 実際、最近の札幌地方裁判所の中は、以前とはかなり雰囲気が変わってきました。 かつては、廊下で知り合いの弁護士に会い、雑談を交わし、相手方代理人と顔を合わせ、書記官と少し話をする――そんな日常がありました。 しかし今は、人が少ない。 裁判所の中で弁護士に出会うこと自体が減っています。建物の中が、どこか「がらん」としている。空洞化は、すでに始まっているのだと思います。

「人間が存在しない裁判」の不気味さ

もちろん、IT化によって効率は上がります。 移動時間は減り、遠方の依頼者の負担も軽くなる。便利になった部分は間違いなくあります。 しかしその一方で、裁判手続から「人間の気配」が消えつつあることに、強い違和感を覚えます。 人間が、人間に直接触れ合うことなく、裁判が進んでいく。 相手方の表情を見ることもない。裁判官の空気感を感じることもない。廊下で偶然会って和解の糸口が生まれることもない。 画面越しに、データだけが流れていく。 それは、生理的に受け付けない感覚です。 裁判とは、本来、人間同士の紛争を、人間が解決する営みだったはずです。 怒りも、悲しみも、後悔も、事情も、沈黙もある。その空気を共有するからこそ、和解や妥協や情状というものが存在してきた。 しかし、効率化されたデジタル空間では、そうした「人間的な揺らぎ」が削ぎ落とされていきます。 情けも何もない世界です。

AIが裁く社会は来るのか

行き帰りの飛行機では、ハリウッド映画『Mercy』を観ました。 作品の中では、刑事事件をAIが90分で審理します。 そして、有罪確率が92%を超えれば即処刑。 被告人には弁護人も付かず、自らAIを使って証拠を探し、自分で無罪を立証しなければならない。失敗すれば死刑です。 極端な設定ではあります。 しかし、現在進んでいるAI技術や司法のデジタル化を見ていると、単なるSFとして笑えない部分もあります。 AIは、膨大な判例や証拠を瞬時に分析できます。感情にも左右されない。効率性だけを見れば、人間より優れている場面もあるでしょう。 ですが、裁判とは、本当に「確率」で決めてよいものなのでしょうか。 人間の人生、背景、後悔、沈黙、空気――。そうした数値化できないものを、司法はこれまで扱ってきたはずです。 東京の通勤ラッシュを歩いていると、ときどきSF映画の中に入り込んだような感覚になります。 誰も無口で、整然と、ロボットのように歩いていく。 巨大なシステムの中を、人間が流れていく。 そして、その延長線上には、人間が裁判所へ行かなくなる世界、人間同士が接触しない司法、AIが判断を下す社会が待っているのかもしれません。 便利さと効率化の先で、私たちは「人間による司法」をどこまで残せるのか。 北海道から東京を見ていると、そんなことを考えさせられます。
2026.05.11

黙る者が負けるというルール・・・一月一言

「批判してはならない社会」が生む停滞

最近、「批判すること自体が悪い」という空気が、日本社会の中で強くなっているように感じる。 もちろん、感情的な中傷や人格攻撃は慎むべきである。しかし本来の「批判」とは、物事を検討し、問題点を指摘し、改善の可能性を探る行為のはずだ。それにもかかわらず、異議を述べることそのものが敬遠される風潮が広がっている。 日本人は幼い頃から、「空気を読むこと」「波風を立てないこと」を重視する文化の中で育つ。自分の意見を貫くより、周囲との調和を保つことが、上手に生きる知恵として教えられてきた。 「出る杭は打たれる」という言葉は、その象徴である。 この文化には、無用な対立を避け、共同体を安定させるという長所もある。しかしその一方で、既存の価値観を疑う視点や、独創的な発想は生まれにくくなる。 そのため、日本では、ブレイクスルーを起こすような突出した人物や、独自の発想を持つ起業家が育ちにくいと言われることもある。

「異議を述べる文化」である訴訟

ところが、法律の世界は、この日本的感覚とはまったく異なる。 訴訟とは、本質的に「異議申し立て」の制度である。相手方の主張に対し、「それは違う」と論理的に反論することによって成り立っている。 西洋近代法の根底には、対立する意見をぶつけ合い、その中から妥当な結論を導くという思想がある。 したがって、訴訟の場で沈黙は美徳ではない。 たとえば、相手方の主張に反論しなければ、「争わない」とみなされる場合がある。いわゆる黙示の承諾である。 しかし、日本社会では「争わないこと」が良識とされやすいため、この感覚を理解していない人が少なくない。 その結果、本来なら争えたはずの権利を、自ら放棄してしまう人もいる。

書面を見るだけで傷ついてしまう人々

実際、訴訟になると、相手方から届く書面そのものに大きなストレスを感じる依頼者は多い。 「こんなことを書かれた」 「人格を否定された」 「攻撃された」 そう感じて深く傷ついてしまう。 しかし、訴訟とは、そもそも原告と被告で物事の見え方が異なるから起こるものである。意見が対立するのは制度上当然に予定されている。 むしろ、反論が存在すること自体は異常ではない。 しかし、日本社会では「対立」そのものへの耐性が弱いため、法的紛争に直面しただけで精神的に消耗してしまう人が多い。 そこで最も楽なのは、黙ることである。 しかし、黙っていれば問題が消えるわけではない。

黙る者が負ける社会

弱肉強食の社会では、沈黙する側が一方的に不利益を受けやすい。 家庭内で立場の弱い配偶者、会社で発言力を持たない従業員、社会的影響力を持たない個人――。 そうした人々にとって、本来、法律は「最後の防御手段」である。 法の下では、強者も弱者も平等である。 だからこそ、弱者にとって法律は極めて重要な武器になる。 しかし現実には、その武器を使おうとしない人が多い。 法律を知らない。 弁護士に相談しない。 争うこと自体を避けてしまう。 結果として、「声を上げない者」が不利益を受け続ける構造が温存される。

なぜ弁護士を増やしたのか

近年、日本では司法制度改革によって司法試験合格者数が大幅に増やされた。 その背景について、「事前規制を減らし、自由競争社会へ移行する以上、被害を受けた人が自ら権利を守れる仕組みを整える必要があった」という指摘がある。 つまり、国家が細かく規制して守る社会から、「被害を受けたら法によって救済を求める社会」へ変わろうとしたのである。 これは、ある意味で「自己責任社会」の進行でもある。 だからこそ、法律へのアクセスを広げ、弁護士を増やす必要があった。 しかし、多くの人はまだ、その変化に気づいていない。 競争社会を受け入れながら、同時に「争うこと」を忌避する。この矛盾が、日本社会の停滞感を生んでいるのかもしれない。

批判とは破壊ではない

本来、批判とは破壊ではない。 それは、現状を問い直し、問題点を明らかにし、より良い方向へ進むための行為である。 もちろん、感情的な攻撃や誹謗中傷は慎むべきだ。しかし、「異議を述べること」まで否定してしまえば、社会は変化を失う。 黙っていることが美徳とされる社会では、強い者の論理だけが通りやすくなる。 だからこそ今、日本社会に必要なのは、「争わないこと」ではなく、「冷静に異議を述べる力」なのではないだろうか。 相談者の中には、訴訟を提起することや話し合いを基調とする調停を申し立てることに躊躇して辞めてしまう方も多い。本当に残念なことだ。
2026.04.29

旅の思い出 〜 北海道大学教養部時代・島原への旅の記憶 〜

ドイツ語クラスがつないだ縁

北海道大学の教養部時代、クラス編成は第2外国語によって決まっていた。私が選んだのはドイツ語。担任は岡崎先生という、ドイツ語をこよなく愛する熱血教官だった。

その情熱に打たれ、私は先生のゼミを履修した。ゼミではワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を輪読した記憶がある。決して平易な内容ではなかったが、言葉と思想に向き合う濃密な時間だった。

その後も岡崎先生とは年賀状のやり取りが続いた。広島大学へ転勤された後、大作『ニーベルンゲンの歌』を完成され、それを寄贈していただいたこともある。学生への思いと学問への情熱の深さを感じる出来事だった。

また、クラスから2人もドイツ語研究者の道に進み、大学教官となったのだから、今振り返ると非常に恵まれた環境にいたのだと思う。

そんなクラスで出会った仲間たち——板東君、野村君、寺田君、そして長崎県島原出身の木村君とともに、忘れがたい旅に出ることになる。


学生時代の無謀で贅沢な旅

目的地は、木村君の実家がある長崎県島原。北海道から九州までという長距離の旅だが、当時の私たちには時間だけはたっぷりあった。

お金はないが時間はある——そんな学生らしい発想で、フェリーを活用した節約旅行が始まった。


フェリーで始まる試練の一日

まずはJRで小樽へ向かい、夜、新日本海フェリーに乗船。翌日は丸一日、船の上で過ごすことになる。

しかしこの一日は過酷だった。波が荒く、ほとんど船酔い状態で、一歩も動けない。ただ横になって耐えるしかなく、苦しい時間が延々と続いた。


京都での回復と自由な散策

3日目の朝、舞鶴に到着。ようやく船酔いから解放され、生き返ったような気分だった。その後、列車で京都へ移動し、「京都タワーホテル」に宿泊した。

京都市内は木村君が案内してくれた。なぜあれほど詳しかったのかは思い出せないが、三十三間堂や清水寺などの名所を効率よく巡ることができた。修学旅行とは違い、自分たちのペースで歩く京都は、どこか新鮮だった。


瀬戸内海の穏やかな船旅

4日目の夜には神戸へ移動し、そこからフェリーで門司へ。今度は瀬戸内海航路である。

前回とは打って変わって波は穏やかで、非常に快適な船旅だった。同じフェリーでもここまで違うのかと実感した夜だった。


太宰府と九州の暖かさ

5日目、九州に上陸。福岡は通過し、太宰府天満宮へ向かった。当時、さだまさしが学生の間で大人気で、「飛梅」の情景を思い浮かべながら参拝し、梅ヶ枝餅を味わった。

さらに、木村君の案内で、お兄さんが勉強していた九州大学にも立ち寄った記憶がある。春休みの時期だったが、九州は北海道とは比べものにならないほど暖かく、その気候の違いも印象に残っている。

その後、西鉄で熊本へ移動し、連絡船で島原へ。ここまでで片道約1週間という、ゆったりとした旅程だった。


島原での温かな時間

木村君の実家に到着すると、家族の会話はほとんど島原弁で、正直なところ理解は難しかった。それでも、温かく迎えてくれていることは十分に伝わってきた。

島原を拠点に、島原鉄道で長崎市へも足を延ばした。


長崎の風景と味の記憶

長崎では木村君の親戚の方も同行してくれ、街を案内してもらった。赤レンガの教会、稲佐山、眼鏡橋、原爆記念公園——どれも印象深い場所ばかりだった。

そして、長崎ちゃんぽんや皿うどん。土地の味もまた、この旅の大切な記憶の一部である。


帰路というもう一つの旅

数日後、木村君を島原に残し、4人で帰路についた。熊本へ渡り、バスで阿蘇を横断し、別府温泉で一泊。その後フェリーで大阪へ向かう。

大阪からは国鉄の「北国」に乗車し、夜出発して青森まで向かう。木の椅子席で一日かけて移動するのは非常に厳しいものだった。

さらに青函連絡船で函館へ渡り、そこから列車で札幌へ戻る。長く、そして身体にこたえる帰路だった。


不便さの中にあった豊かさ

振り返れば、決して楽な旅ではなかった。船酔いに苦しみ、長時間の移動に疲れ、贅沢な食事もなかった。

それでも、あの旅は確かに楽しかった。

時間に追われることなく、日本を縦断し、京都や長崎、島原をじっくり味わうことができたのは、学生時代ならではの贅沢だったと思う。


もう戻れない旅のかたち

あれから約50年。今は多少の余裕はあっても、あのように時間を贅沢に使うことは難しく、不便さを受け入れることもできないだろう。

新日本海フェリーでの激しい船酔い、瀬戸内海の穏やかさ、そして大阪からの厳しい列車の旅——それらは今も強く記憶に残っている。

あんな旅は、もう実現できないだろう。


あの頃の仲間たちへ

一緒に旅をした仲間たちとは、大学卒業後ほとんど会っていない。

それでも、あの時間を共有した記憶だけは消えない。ふとしたときに思い出しながら、みんなどうしているのだろうかと静かに考えることがある。

2026.04.04

一月一言・・・裁判のIT化とは?オンライン調停時代に見直すべき「対面」の重要性

ハリウッド映画「サロゲート」が示したIT社会の行く末

映画『サロゲート(Surrogates, 2009)』をご紹介したい。近未来を舞台とするこの作品では、人々は「サロゲート」と呼ばれる遠隔操作型アンドロイドを代理身体として使用し、ほとんど自宅を出ずに生活している。事故や犯罪は激減し、表面的には合理的で安全な社会が成立する。しかし、人々は自身の身体を使うこと、生身の姿を相手に見せることを手放し、他者との感情交流は希薄化し、巨大企業の支配が進む中で、社会は深刻な人間性の喪失へと向かっていく。ブルース・ウィリス主演のこの映画、最近CSで久々オンエアしていた。是非、チャンスがあったら見ていただきたい。

裁判のIT化が進む背景とメリット

近年、日本の司法分野において「裁判のIT化」が急速に進んでいます。
具体的には、Web会議による期日進行、オンライン調停、書面の電子提出といった手続が一般化しつつあります。

裁判のIT化には、次のようなメリットがあります。

  • 裁判所への移動負担の軽減
  • 手続の迅速化・効率化
  • 遠方当事者の参加の容易化

特に企業法務や多忙な当事者にとっては、時間的・物理的な制約を大きく減らす有効な仕組みといえるでしょう。

一方で、「オンラインで完結する司法」が進むことで、見落とされがちな課題も存在します。


オンライン裁判・オンライン調停の課題とは

裁判のIT化が進む中で、「オンライン裁判」や「オンライン調停」に対する課題も徐々に指摘されています。

非言語情報の不足

対面の場では、

  • 表情の変化
  • 声のトーン
  • 沈黙の意味
  • 姿勢や視線

といった非言語情報が重要な役割を果たします。

しかし、オンライン環境ではこれらの情報が制限され、当事者の真意や感情の機微を把握しにくくなる傾向があります。


書面の過激化・コミュニケーションの変化

近年の実務では、準備書面の表現が断定的・攻撃的になる傾向も指摘されています。

対面であれば自然と働く「相手への配慮」が、オンライン環境では弱まりやすく、心理的距離がそのまま表現に現れるためです。

これは、裁判の公正性や品位にも影響を及ぼす重要な問題です。


調停手続における対面の重要性

特に「調停手続」においては、対面でのやり取りが極めて重要です。

調停とは、当事者同士の合意による解決を目指す手続であり、単なる法的判断ではなく「人と人との対話」が中心となります。

調停委員は、以下のような要素から当事者の真意を読み取ります。

  • 表情のわずかな変化
  • 声の震えや間の取り方
  • 沈黙の重さ
  • 身体の動きや姿勢

これらはオンラインでは十分に伝わらないことが多く、調停の質に影響を与える可能性があります。


弁護士実務から見たオンライン化の影響

弁護士の立場から見ても、裁判のIT化は実務に大きな変化をもたらしています。

対面の場では、

  • 裁判官の表情の変化
  • 調停室の空気感
  • 廊下での短いやり取り

といった、いわゆる「行間の情報」を得ることができます。

こうした情報は、書面には表れないものの、事件の理解や戦略立案において非常に重要です。

オンライン中心の環境では、これらの情報が得にくくなり、判断の精度に影響を及ぼす可能性があります。


「対面」の持つ本質的な価値とは

裁判のIT化が進む中でも、対面には代替しがたい価値があります。

対面の場では、時候の挨拶や雑談といった一見無関係なやり取りが、信頼関係の構築に寄与します。

この「余白」があることで、

  • 当事者間の心理的距離が縮まる
  • 裁判官・調停委員との信頼関係が生まれる
  • より本質的な問題に踏み込める

といった効果が期待できます。


裁判のIT化と対面のバランスが重要

今後、「裁判のIT化」はさらに進展していくと考えられます。
オンライン調停やWeb期日は、今後も重要な手段であり続けるでしょう。

しかし、司法の本質はあくまで「人が人に向き合うこと」にあります。

すべてをオンラインに置き換えるのではなく、

  • 案件の性質
  • 当事者の状況
  • 紛争の深刻度

に応じて、対面とオンラインを適切に使い分けることが重要です。


まとめ:オンライン時代にこそ問われる調停の質

裁判のIT化は、利便性と効率性を大きく向上させました。
一方で、対面によって支えられてきた司法の本質的価値が揺らいでいる側面もあります。

特に調停手続においては、対面による対話が持つ意味は依然として大きく、

  • 当事者の真意の把握
  • 信頼関係の構築
  • 納得感のある解決

において不可欠な要素です。

当事務所では、オンラインと対面の双方の利点を踏まえ、案件ごとに最適な手続選択を行い、依頼者の利益最大化を目指しています。

2026.03.22

思いでぼろぼろ・・・心の原風景・・真駒内

真駒内の原風景

川の名を持つまち

澄川と石山の間に広がり、豊平川をはさんで藻岩の山並みに向かい合う真駒内。この地名は、静かに流れる真駒内川から名づけられたという。

いまでは大きな住宅地として知られているが、その歴史をたどると、牧場の時代、進駐軍の時代、そしてオリンピックの時代と、幾度も姿を変えてきた場所である。

けれども、私にとっての真駒内は、そうした歴史の年表ではなく、子どもの頃に見ていた風景そのものだ。


記憶のはじまり

もともとは北16条東7丁目あたりに住んでいたらしいが、その記憶はほとんどない。北海道大学のポプラ並木で撮った写真が残っているだけで、そこにいたはずの自分の記憶は不思議なほど空白だ。

はっきりと覚えているのは、真駒内に移ってからのことだ。


C団地という世界

団地はA、B、Cと順に造成され、私が住んでいたのはC団地だった。C団地は桜山の麓にあり、自然がすぐそばにあった。夏になると、たくさんのちょうちょやトンボが舞い、クワガタも飛んできた。草むらではキリギリスが鳴き、広場に行けばトノサマバッタが力強く跳ねていた。

C16の二階建ての長屋に、いくつもの家族が並んで暮らしていた。長尾さん、宮岡さん、林さん、森木さん――いまでも名前だけは鮮明に残っている。

全部で18棟、100世帯ほど。子どもたちが本当に多く、町全体に活気があった。


横につながる暮らし

二階建ての長屋で横に繋がっている暮らしは、どこか炭鉱住宅のような連帯感があった。壁一枚隔てた向こうに別の家族の気配があり、外に出ればすぐに誰かと顔を合わせる。

高層アパートのように上下に積み重なるのとは違い、横に広がる生活のつながりがあった。

家のつくりも素朴だった。一階に台所と居間があり、二階が寝床。風呂はなく、電話もない。それでも不便だと感じたことはあまりなかった。人の気配や声がすぐ近くにあることが、当たり前だったからだ。


学びと日常

幼稚園は真駒内幼稚園、小学校は真駒内小学校、中学校は真駒内中学校、そして真駒内曙中学校へと進み、高校は南校へ通った。幼稚園から高校二年生まで、実に12年以上をこの地で過ごしたことになる。

夏の夜には花火をし、街灯に集まるクワガタを追いかける。休みの日には「さとる君、あそぼう」と声がかかり、グラウンドで草野球をする。暗くなるまで遊ぶのが当たり前だった。


芝生の中の異国

自転車で走り回っていたのは、進駐軍が使っていた住宅跡。後に警察の宿舎となった場所だ。あたり一面が芝生で、石板の道が続いていた。ナナカマドやオンコの木が並び、まるでテレビで見たアメリカの住宅地のようだった。

その風景の中で過ごした時間が、いまでも鮮やかに残っている。


「端」に住む感覚

当時の真駒内は、いまよりもずっと「端」にある場所だった。市内に出るには、定山渓鉄道のマコナイ駅近くか、上町の商店街まで行ってバスに乗るしかない。真駒内の南の果てに住んでいる、そんな感覚があった。

高校のとき、今度は札幌の西の端である手稲へ移ることになる。そして、司法試験に合格するまで、そこに住み続けた。

振り返れば、私はいつも「端」に住んでいたのかもしれない。


変わるまち、残る記憶

オリンピックの開催が決まり、まちは一気に変わっていった。施設が建ち、団地が整備され、「五輪のまち」としての姿が形づくられていく。

けれども、私の中に残っている真駒内は、その前の、芝生が広がり、虫の音と子どもたちの声、そして人の気配が近くにあった住宅地の姿だ。


緑の中でよみがえるもの

いまは札幌の中心部に住んでいるが、大通公園の木々の間を歩いていると、ふと真駒内に住んでいた頃を思い出すことがある。

あのとき見ていた緑や風の感じが、どこかでつながっているのかもしれない。

まちは変わっていくものだが、原風景は変わらない。

それが、このまちが持つ、もう一つの姿なのだと思う。

2026.03.15

医療事故・医療紛争はすぐに訴訟するべき?

医療紛争の早期解決に役立つ「民事調停」という選択

医療事故や医療トラブルが起きた場合、多くの方がまず思い浮かべるのは「裁判(医療訴訟)」かもしれません。

しかし、医療紛争の解決方法は訴訟だけではありません。実務上、民事調停という制度を利用することで、訴訟に進まず解決できる可能性もあります。民事調停は、裁判所が関与しながら当事者の話し合いによって解決を目指す制度であり、医療紛争においても重要な役割を果たし得る手続です。本稿では、医療事故の解決手段としての民事調停の意義と可能性について解説します。


医療紛争は専門性が高く、認識の違いが生じやすい

医療紛争の大きな特徴は、医学的専門性の高さです。

患者側としては「医療ミスではないか」と感じていても、医療機関側としては「医学的には問題のない処置である」と考えていることもあり、双方の認識に大きな隔たりが生じることも珍しくありません。

このような状況で、いきなり訴訟に進むと、

  • 争点の整理

  • 医学的評価の検討

  • 鑑定などの手続

に多くの時間と費用がかかることがあります。

そのため、まずは調停の場で事実関係や医学的評価を整理し、双方の理解を深めながら解決の可能性を探ることには大きな意味があります。


医師が関与する民事調停の仕組み

民事調停は、公開の法廷で行われる訴訟とは異なり、非公開の場で話し合いによる解決を目指す制度です。

調停では通常、裁判官、一般調停委員が関与しますが、医療紛争の場合には医療専門調停委員として医師が関与する場合が多くあります。

訴訟の場合、裁判官が医学的知見を得るためには鑑定などの手続が必要となり、審理が長期化することも少なくありません。

これに対し、民事調停では、医師の助言を踏まえながら議論を進めることができるため、より実質的な話し合いが可能になるという特徴があります。


医療側の説明で患者が理解することもある

医療調停の場では、医療機関側の考え方や医学的評価について説明が行われます。

患者側としても、その説明を聞くことで医療行為の背景や医学的判断を理解できる場合があります。

実務上、医療側が丁寧に説明することで患者が納得し、訴訟に至らず解決するケースも少なくありません。

つまり民事調停は、単に賠償額を決める場ではなく、相互理解を深める場でもあるのです。


民事調停を軽視してしまう医療機関もある

もっとも、実務の中では、残念ながら医療機関側が民事調停を十分に重視していないように見える対応に接することもあります。

例えば、調停を形式的な手続として扱う、十分な検討を行わない、早期解決の可能性を真剣に検討しない

といった対応です。

しかし民事調停は、訴訟に発展する前に問題を整理し、早期に解決できる可能性がある重要な手続です。

医療機関側が患者に対して丁寧に説明を行えば、患者側が理解し、訴訟に進まず問題が収まることもあります。

その意味で、調停の場を十分に活用しないことは、早期解決のチャンスを逃してしまうことにもつながりかねず、非常にもったいないと感じる場面もあります。


患者に強い言葉を向ける書面が提出されることも

さらに残念なことに、調停や交渉の場において、患者に対して強い言葉を用いた書面が提出されることもあります。

もちろん、医療機関として自らの立場を主張すること自体は当然です。しかし、医療事故や医療トラブルの背景には、患者や家族の大きな不安や苦しみがあることも少なくありません。そのような状況で強い表現が用いられると、紛争はむしろ深刻化してしまいます。

本来、調停は対立を深める場ではなく、冷静に問題を整理し、解決を模索する場であるはずです。


海外では医師が調停に積極的に関与している

海外では、医療紛争の解決において医師が調停手続に関与する制度が整備されている国もあります。

例えば、ドイツでは、医師会が中心となって医療紛争の調停・仲裁制度を運営しており、医師が専門家として関与しています。

また、韓国では「医療紛争調整仲裁院」という制度があり、医師などの医療専門家が紛争解決手続に関与しています。

このように、医療紛争においては医学的専門家の関与が制度的に重視されている国も少なくありません。


日本でも医師の関与をもっと広げるべき

日本の民事調停でも医療専門調停委員として医師が関与することはありますが、実務上は必ずしも十分とは言えない面もあります。

医療紛争の性質を考えると、医学的知見を踏まえた議論ができる環境を整えることは非常に重要です。

そのため、今後は、

  • 医療専門調停委員としての医師の関与をさらに広げること、現役医師だけでなく、現役を退いた経験豊富な医師にも調停委員として関与していただくこと

なども検討されてよいのではないかと思われます。

医療と法律の双方の視点が調停の場に存在することで、より実質的で納得感のある解決につながる可能性が高まるでしょう。


医療紛争は訴訟の前に解決できることもある

民事調停は、医学的知見を踏まえながら柔軟な解決を図ることができる制度であり、医療紛争において非常に有効な手続です。

また、仮に調停が成立しなかった場合でも、調停手続の中で争点整理が進むため、その後の訴訟手続が円滑に進むという利点もあります。

医療紛争は、患者側・医療側のいずれにとっても大きな負担となります。

だからこそ、訴訟に進む前の段階で、民事調停という制度を十分に活用し、冷静で建設的な解決を模索することが重要だといえるでしょう。


医療事故・医療トラブルのご相談について

医療事故や医療トラブルについては、医学的評価や法律的判断が複雑に絡み合うことが多く、専門的な検討が必要となります。

当事務所では、医療事故に関するご相談をお受けしています。

  • 医療ミスではないかと感じている

  • 医療機関の説明に納得できない

  • 訴訟をするべきか迷っている

このようなお悩みがある場合には、まずは一度ご相談ください。

状況に応じて、調停・交渉・訴訟など適切な解決方法をご提案いたします。

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