コラム

2020.11.20

【2003年~2005年】独立時代〈 前期I 〉

平成8年、独立忘れられない「事務所開き」の思い出

中山博之法律事務所には4年契約で入所したが、中山弁護士が札幌弁護士会の副会長になったことから独立が半年遅れ、平成8年1月に独立をすることとなった。
当時は、札幌弁護士会は牧歌的でアットホームで、全体で200名程度、毎年加入する弁護士が10名前後だったから、1人1人の顔と名前が一致する時代で、弁護士が独立すると事務所開きと称して、事務所をお披露目し、多くの弁護士がご祝義を持って集まってくれた。私も「事務所開き」を行わせていただき、多くの弁護士の前で、家族そろってご挨拶をさせていただいた。中山先生や中山事務所の二代目イソ弁の森越壮史郎弁護士、同期弁護士からも激励のご挨拶、多くの花束を戴いた。この時の感動は今も忘れられない思い出であり、私の弁護士人生のハイライトの―つだ。

医療訴訟への取り組み

当時、医療訴訟の患者側は、医療に関する知識も少なく、医師の協力も得られる機会が少ないことから不毛の時代だったが、この分野のパイオニアである名古屋の加藤良夫弁護士の呼びかけに呼応して、上田文雄弁護士や中山弁護士が中心となって札幌で医療訴訟弁護士団を作ることになり、その原始メンバーに人れてもらえることになった。メンバーは当初20名前後で、それぞれ5名程度の班をつくり、医療事故で泣き寝入りするしかない患者を救おうというスタンスで無料相談や事件を担当、弁護団を立ち上げた。
班は、AからDまで4つあり、私はC班だった。C班として、私が最初に関わった事故が麻酔事故であった。「麻酔をかけたらだめな身体だったのに、麻酔をかけられたために夫が死亡した」という判じ物のような妻の訴えから調究がスタートした。最初は麻酔にアレルギー反応があるということなのか、半信半疑だったが、以前手術を受けたことがある病院から医療記録を取り寄せたところ、患者は「猪首」で気管挿管がしづらい体型で、実際、手術の際は挿管ができずマスクに切り替えて手術をようやく成功させていたことが判明した。
勝てるという確信のもと、毎回準備書面を作成し、同じC班のベテランの北潟谷仁弁護士に何度も添削をしていただいた。徹夜に近い作業を繰り返して、ついに逆流性食道炎に罹患するまでになったが、努力は実り勝訴となった。この事件で患者の声を素直に聞くことの重要性、粘り強く諦めずに取り組むことの重要性を学んだ。最初の事件が大きな成果を出したことが、その後私を医療訴訟の世界にのめり込ませる結果となった。

楽しかった公害環境委員会での弁護士会活動

表現は適切ではないが、当時の弁護士会活動には、遊び心や余裕があったように思われる。私も公害対策・環境保全委員会では、日頃の業務や裁判と直結しないことから、純粋な気持ちで活動し、士幌高原道路や千歳川放水路などの問題で弁護士会の活動が大きな成果を収める場面に立ち会うこともできた。
この委員会の先輩が強く勧めてくれた、日弁連の公害対策・環境保全委員会の海外視察(ベニスでの国際環境裁判所設置に関する会議)の参加は、大きな財産になった。視察中、井の中の蛙だった私は、日弁連で活動する弁護士のスーパーマンぶりに驚かされ、途中立ち寄ったデンハーグ(オランダ)の国際司法裁判所では、小田判事からヒアリングをするなどの貴重な体験もさせてもらった。そしてこの海外視察の経験が、札幌弁護士会公害・環境委員会単独でのドイツ環境首都の視察につながった。この視察に参加した若手弁護士が、後に公害環境委員会の中心になってくれた。

刑事事件で無罪判決

中山弁護士が全国的に見ても有数な刑事弁護人だったので、刑事事件にも懸命に取り組んでいた。イソ弁時代に、ガソリンスタンドで覚せい剤を使用中に警察の職務質間を受けた被疑者が、乗っていた車で逃げようとして給油機にぶつかってしまい破損させ、覚せい剤取締法違反と器物損壊罪に間われた事件で、給油機にぶつけるという故意はなかったと主張して無罪を獲得した。また、独立してからも放火事件で一部無罪を獲得し、有罪とされた事件については最高裁まで争い、最高裁で保釈決定を取るなどの結果を残すことができた。また、殺人後、被害者から財布を取ってしまったという案件で強盗殺人に問われた事件では、財物奪取の意思は殺人後に生じたものだ、殺人+窃盗に過ぎないとして争い、捜査段階では連日接見をして、被疑者を励ました。毎日面会して信頼を勝ち得ていたと思っていたが、後日、被疑者に「本当は敵対しているはずの検察官の方が弁護人よりも親身に自分のことを考えてくれていると錯覚してしまった」と告白され、挫折感を覚えたことを鮮明に覚えている。残念ながら弁護人の主張は認められなかった。
私にとっての最大の刑事事件は、拓銀の元経営陣に対する特別背任事件だろう。この事件のことは知っている人も多いだろうが、次回に書こうと思う。

弁護士会の視察で海外へ家族で映画の舞台も巡った思い出

弁護士会の活動では、公害対策・環境委員会で副委員長になり、日弁連公害対策・環境委員会委員として日弁連活動にも参加した。日弁連では、自然保護部会に所属して、さまざまな自然保護問題のシンポジウムの企画に参加し、海外視察にも結構出かけた。最初は、視察にただついていくだけであったが、後にコーディネーター役に抜擢されるまでになった。
一番のハイライトは、ウィーンからミュンヘン、ケルンを巡った視察だろうか。この時は都市計画の視察であったが、その前後に楽しい個人旅行が組み込まれていた。せっかくの機会だからということで、参加メンバーの家族も参加した。私も、当時幼稚園に通っていた娘と家内を伴って参加した。ウィーンに入る前に名作「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台を巡る旅をした。素晴らしい風景だったが、そこがトラップ一家がボートをこいで転覆したムントゼーであることや、ドレミの歌を歌ったミラベル庭園であることなども知らずに巡っていた。帰国してから映画をレンタルして観て、「ああ、あの場所だ!」と親子して叫ぶシーンばかりであった。本当にもったいないことをした。