コラム

2020.11.20

【1989年~1990年】私の司法修習生時代〈その2〉中期司法研修所生活

検察修習で学んだのは被疑者の信頼を勝ち得る取り調べ

当時の修習制度では、夏までみっちり訴状作成や弁論要旨作成などの基礎訓練を受けた後、実務修習地で民事裁判、刑事裁判、検察、弁護の各科目について裁判所や検察庁、そして法律事務所で実地訓練を行う仕組みになっていた。私が配属されたのは地元札幌地方裁判所であった。
最初の修習は検察である。検察修習では実際に被疑者を取り調べて調書を作成したり、公判に立ち会うなどする。その中でも最も貴重な体験となったのは取り調べ修習である。当時は札幌に配属される修習生はわずか14名(今は100名弱)であったので、修習生二人で組になって取り調べを担当するが、被疑者の数も10名近くとなり、非常に忙しかった。覚醒剤や強姦、強制わいせつ、窃盗などの被疑事件を担当したが、一番記憶に残っているのは当初否認していた窃盗事件であった。いろいろと調べを進めていくうちに、自白をしてもらえることができたのである。
取り調べは、被疑者からいかに信頼を勝ち得るかの勝負であると確信した。被疑者のことを考えた上での取り調べこそ被疑者の心に響くものであり、上から目線ではなかなか良い取り調べはできないことを悟った。検察修習は、活気のあるもので当時修習担当だった新庄検察官の明るい人柄も手伝って、検察官という仕事には大いに魅力を感じたものである。

尋問に対する裁判官の評価を学んだ裁判修習

約4カ月の検察修習を終えると、次は刑事裁判修習である。被疑者を糾弾する側から裁く側に回るわけである。私の修習は刑事一部で、龍岡裁判長、若原右陪席裁判官、伊澤左陪席裁判官で構成されていた。龍岡裁判長は修習生を自宅に招いてくれて、裁判官の日常生活を見せてくださった。また、合議事件などでは刑事裁判官の悩みを垣間見ることが本当に勉強になった。
さらに、数カ月後には民事五部に配属となった。若山裁判長、山下右陪席裁判官等の下で判決起案などをさせていただいたが、一番勉強になったのは証人尋問後の裁判官の尋問に対する評価である。弁護士になってみると、自分が行った尋問を裁判官がどのように評価しているのか関心がある。しかし、それを裁判官に尋ねる訳にもいかない。修習生のときは裁判官から目の前で実施された尋問の評価をすぐに聞けるわけだから勉強にならない訳がない。

どんなことがあっても休んではならない

さて、検察修習では目が回るような忙しい修習だったのが、裁判修習ではじっくりとした修習となり、時間がゆったりと流れていった。しかし、いよいよ弁護修習が始まると、その時間の流れは想像以上に激しく厳しいものに変わった。
当時修習を担当してくださる修習担当の弁護士は担当弁護士が引くくじで決まるのが習わしで、私は磯部憲次先生のところで修習することに決まった。
磯部憲次先生の指導は極めて厳しいものであった。磯部先生からまず言われたのは「弁護士は健康こそ最も大事で、どんなことがあっても風邪であっても交通事故にあっても這ってでも仕事に出なければならない」ということだった。
ところが、間が悪いことに言われてすぐに風邪を引いて休む羽目になった。風邪で寝込んでいたら、磯部先生から電話が来て、やりかけの起案を完成させないまま事務所を休んでしまったことについて注意を受けたのである。
また、磯部先生が事情を聴取しているときに私が介入し、他愛もない話題を顧客に話しかけ場を和ませることがあったが、顧客が帰ってから、途中で話の腰を折るような言動を慎むよう諭された。このエピソードは修習から20年以上経ても記憶に残っているのだから、よほど当時の自分には堪えたのであろう。

足を休めないで歩くそれが弁護士

考えてみれば、検察修習、裁判修習と大過なく過ごし、中だるみしていた時期だったのかもしれない。 他の事務所に当たった修習生は、ほとんど事件が無く、ゆっくり過ごしているという。話を聞く度に羨ましいと思ったものだ。
ところが、今思えば磯部事務所で厳しく指導されたことが弁護士になって本当に貴重な経験だったと思える。磯部先生には、弁護士の基本姿勢を教わった気がする。
磯部先生は開業以来一日も健康上の理由で仕事を休んだことは無い。そのことを自慢されていたが、私も現在までノロウィルスに罹患したときに休んだ一日を除いて、一度も風邪で仕事を休んだことがないのが自慢の一つだ。
磯部先生は厳しいだけでなく、よくすすきので、おいしい食事をご馳走してくださった。事務所旅行では返還前の香港マカオにも連れて行ってくださった。生まれて初めての海外旅行だった。
また、「北海道を歩こう」大会には歴代の修習生が参加しているということで、真駒内から支笏湖までの36kmを、恵庭峠を越えて歩く大会にも参加した。こんなに長い距離を歩くのは初めてだった。それでも一歩ずつ一歩ずつ「とにかく足を休めないで歩く、それが弁護士」という思いをかみしめながら完歩したのを覚えている。