コラム

2020.11.20

【1980年代】私の司法試験奮戦記

法学部の自習室で学び司法試験という壁に挑む

北海道大学法学部を同期と一緒に卒業せず、司法試験にチャレンジする道を選んだ私は自宅では勉強をせず、毎日法学部の自習室に通った。自習室には、私のように司法試験をチャレンジする先輩が多数いて、緊張感を持って勉強できるからだ。また、休み時間になれば、給湯室と呼ばれる学生の休憩室でお茶を飲みながら、さまざまな法律論を戦わせることができた。
当時、司法試験は約2万人が択一式試験を受験し、約5,000人が合格して、論文試験を受け、500名に絞られる。さらに口述試験で50名程度がふるいにかけられて落とされ、残りの450名となり、ようやく最終合格する。合格率2%前後、合格者の平均年齢29才という日本で一 番難しい試験であった(ちなみに現在の全体の合格は2,000名程度、北海道大学ロースクールの合格率は30%程度)。
択一式試験は、マークシート形式の90問だったが、受験経験を重ねるうちに、75問、60問と減っていき、その分問題も長文化し、難しくなっていった。合格率25%だが、ボーダーラインには大人数の受験生がひしめき、最大難関の論文試験に力を入れすぎて、取りこぼしてしまうことがよくある試験だった。

布団にくるまって択一・論文試験に泣いた歳月

5月の第2日曜日の母の日に行われるこの試験で落ちると、来年まで一年間待たねばならず、この上なく辛い。一番辛かったのは合格前年に択一試験で落ちた時だ。この時は、論文に相当自信があっただけに本当に辛かった。布団にくるまって何週間も過ごして現実逃避した。立ち直るのに何週間もかかった。
論文試験は、憲法・民法・刑法・商法・訴訟法(民事ないし刑事)・法律選択科目(私は国際私法)・教養科目(私は政治学)の7科目を4日間かけて各2時間ずつ解いていくという過酷な試験だ。私はここで何度も足踏みを食わされた。
当時、成績通知制度が始まって、自分が受験した司法試験の各科目の成績を知ることができた。私は受験して数回目で総合A評価を得ることができた。A評価とは、論文受験生のうち合格者を含めてトップ1,000番にいるということだ。以下、500人刻みにB・C…Gとなる。私は、このA評価を3年連続とるという自慢できない名誉を得た。つまり、毎回チケットを購入するために列に並ぶが、直前の人で売り切れとなってしまったということを繰り返していたのだ。
論文の合格発表は合同庁舎の掲示板に紙が貼られる。合格する前々年のことだが、結構自信があったので、発表時間に遅れて悠々と掲示板を見に行ったのだが、すれ違った受験仲間が憐れむような目線を私に投げかけていったことを今でも鮮明に覚えている。結果は不合格。もちろん、この時も布団の中で数週間過ごした。

涙が頬を伝う喜びも束の間、プレッシャーが押し寄せる数カ月

3年連続Aに留まっていた私は、合格した先輩に相談したところ、複数の科目で大きく点数を稼ぐようアドバイスを受けた。その年、私は憲法と刑法に絞ってゼミを組み、過去問を中心に徹底的に論点を掘り下げ、理想的な論文答案を作成することに没頭した。
論文対策に力を注いだため、択一試験は薄氷を踏む思いであったが、その分論文では実力を発揮できた。その年の論文の合格発表の時は時間前に陣取り、掲示板が張り出される瞬間を目撃した。巻紙の一番上を画鋲で留めて、クルクルと解きながら掲示していくのだが、その途中に自分の名前を発見したときは、うれしくて飛び上がりたい気持ちと安堵感が一気に広がり、涙が頬を伝わった。
合格の喜びに浸って、家に戻ったが、その夜当たりから今度は一気に口述試験に対する不安感で押しつぶされそうになった。落とされるのは1割程度。その1割に自分が入らないとも限らない。論文試験は6月、合格発表は秋。その間、口述対策ゼミを組み、準備は万端だったのだが、ここまで来て絶対落ちたくないという気持ちが非常に強くなり、それがプレッシャーとなった。
口述試験は東京の最高裁研修所で行われた。一週間一日1科目から2科目の口述試験だった。試験官の前に座らされ、さまざまな法律問題を受け、その質問に臨機応変に答える。目の前には六法一冊。長丁場であったが、実際に受験してみると、給湯室の議論で鍛えられていたので、むしろ楽しく受験することができた。そして、無事合格を果たす。

懐かしく幸せな歳月だったモラトリアム時代

合格したのは、昭和天皇が崩御される前年の昭和63年(1988)のことだった。受験開始が法学部移行期の昭和52年(1977)だから、チャレンジすること11回でようやく論文に合格したことになる。長い受験生活だった。しかし金も地位もなかったが、野心に近い希望や時間はふんだんにあった。あれほど自由に時間を使えた時期はない。親の脛をかじりながら過ごしたモラトリアム時代だったが、受験の苦しみの思い出よりも、今は楽しい思い出しか残っていない。ある意味幸せな時期だったような気もする。