コラム

2020.11.20

【1978年】~都ぞ弥生 ~おごそかに北極星を仰ぐ哉~

北海道大学はコスモポリス

●札幌南高校を卒業して北海道大学に合格した私は、北海道大学の学生の多様性に驚かされた。当時、北海道大学は道内と道外の学生が半々であった。関西方面から来た学生は関西弁を直そうともせず、堂々と話していた。九州から来た学生はどことなく控えめな態度で好感が持てたためか、九州出身の人とはウマがあった。教養時代一緒に過ごした仲間に、長崎県島原出身の木村君と大分県四日市出身の古野君という2人の友人がいた。
北海道大学教養学部では、ドイツ語の岡崎先生が担任であった。第2外国語はドイツ語を選んだのだが、教養のクラスは外国語選択で分けられていた。ドイツ語選択のクラスは女子がとても少なく後悔した。女性はやはりドイツ語よりフランス語だったのだ。
教養時代の最大のイベントは学園祭の模擬店であろうか。クラスでおでん屋をやることになり責任者となってしまった。だが、私は高校時代、生徒会活動ばかりやっていて模擬店の経験がなく、女学生からリーダーシップがないと直接非難され非常に落ち込んだことを覚えている。

授業そしてアイドルと映画三昧の日々

テレビドラマでは、大学生といえば、「暇」というイメージであったが、必修単位も多く、取らねばならない単位数もかなりあった。かつ、成績順で希望する学部を選択できるシステムだったため、授業をサボることもあまり出来ず、かなりまじめな学生生活を送っていた。
それでも授業が終わると、狸小路のビリヤード屋に行ったり、初めてパチンコにも打ち興じたり、深夜まで飲んで友人の家に泊めてもらったり。それなりに青春を謳歌していた。いつも遊んでいたメンバーは上野君、坂東君、寺田君、野村君、小山君、古野君、木村君の7名。
中でも小山君は熱烈的なキャンディーズファンで、彼に感化されて私もいつしかキャンディーズファン(特に蘭ちゃん)になっていた。蘭ちゃんのブロマイドを財布に入れていたのもこの頃だ。その後、薬師丸ひろ子が好きになって、ついにはコンサートまで行った。
また、寺田君、野村君とは汽車通仲間でもあったので、札幌駅の地下にあった映画館で二番煎じで回ってくる映画を見ていた。確か学生300円くらいだったと思う。
映画館は決して綺麗とは言えないが、いつも満員だった。ここで、薬師丸ひろ子や原田知世主演の、当時人気絶頂だった角川映画など、さまざまな邦画を観ていたが、でも一番感動したのは、「砂の器」だった。満員御礼の劇場で、立ち見で最後まで感動して見入っていた。あの時の人混み、観客の雰囲気が忘れられない。今でも映画館へ足を運ぶのはこの体験によるものかもしれない。映画は自宅で観るよりも、多くの人と一緒に観た方が絶対に感動するものと肌で感じたものである。

長崎の鐘

入学後2年生3年生との対面式があったが、野次と怒号の中、いきなり先輩の一部から1年生に生卵が投げつけられるという洗礼を受けた。
今でもなぜ野次と怒号が生じ、生卵だったのかわからない。
全校集会も常識を超えていた。まずクラス毎の整列というものがない。生徒は、三々五々体育館に集合して、無秩序にたたずんで、校長先生の話を聞くのである。

そして法学部へ

教養学部も2年の後半には、各学部への移行期を迎えた。私は、一生懸命「優」を集め、問題なく法学部に進学した。そして、司法試験を目指す先輩が多くいる歴史ある北大法律相談室に入室したのである。