コラム

2020.11.20

【1975年~】堅忍不抜 ~札南の青春~

札幌南校を選択した動機は単純だった

僕が札幌南高校に進学を決めたのは極めて単純だった。「札幌で一番の進学校」であると言うだけであった。だから南高の校風がどのようなもので、どのような教育がなされているのかについては全くの無知であった。

鮮烈!対面式での洗礼

入学後2年生3年生との対面式があったが、野次と怒号の中、いきなり先輩の一部から1年生に生卵が投げつけられるという洗礼を受けた。
今でもなぜ野次と怒号が生じ、生卵だったのかわからない。
全校集会も常識を超えていた。まずクラス毎の整列というものがない。生徒は、三々五々体育館に集合して、無秩序にたたずんで、校長先生の話を聞くのである。

学習はあくまで自主的に

進学校なのだから、さぞや先生方の授業は素晴らしいのだろうと思っていたのだが、大変失礼なのだが、本当に役立つ授業は少なかったように思う。
僕の勉強法は中学時代から、授業中心主義であったから、これには面食らってしまった。
南高では授業中、昼行燈のようにボーっとしていたり、居眠りしているやつ程テストの成績が良かったり。そういうやつらは自宅で死ぬほど勉強していたようだ。1年生ながら3年生の校内模試を受けてベストテンに入るという猛者もいた。

生徒会活動をするのは物好きのすることだ

当時南高校には、学園紛争の名残で生徒会長も何代にもわたって空白だった。その代わり「会長代行」という制度があり、自治委員会で選任された者が会長代行をしていた。前号でも書いたが、中学時代の生徒会の栄光が忘れられなかった私は、1年の後期に会長代行に立候補し、2年の前期には正式に会長に立候補したのである。そして対抗馬が出ず無投票当選した。
当時、南高で生徒会活動をすることは「物好き」がやることだったのだ。周囲の生徒は何年かぶりで会長に立候補した私をあきれ顔で見ていたし、学校新聞は愚鈍な者として、私を表現していた。

「風月」と傷ついた学校祭

生徒会長になった僕は生徒会学校祭の準備に追われた。夏休みは連日学校に夜遅くまで詰めて準備をしていたのだが、その時食べていたのが「風月」の焼きそばとお好み焼きである。
当時「風月」は本当に小さいお店で、数十年後これほど大きくチェーン展開して行くとは思いもよらなかった。家に戻りさらにご飯を食べていたから、体重が増えに増え110キログラムまでなっていた。
そして学校祭。一生懸命準備して臨んだが、悲しいことがあった。
後夜祭の時、ファイヤーストームの前に、火文字に点火しようとしたところ、担当の先生が灯油ではなく、揮発性の高いガソリンを塗っていたため点火しなかったのだ。生徒から容赦なく、「今年の執行部は何をやっているんだ」と野次られたのだ。
その時はどんなに一生懸命やっても報われないことがあるのだとつくづく思った。
会長の任期が終了した2学期末テストでは成績順位も、入学時30番位だったのに400番台(450人中)になり、生徒会長に立候補したことをひどく後悔した。
3年に進学するとき、浪人を覚悟した。でも、そこからコツコツと勉強をやり直した。そしてどうにか北海道大学法学部に合格することが出来たのである。

弁護士になってみて

南高を卒業してすでに30年が経った。皮肉にも弁護士になってみて、一番役だっていることは南高で勉強したことではなく、生徒会活動の進め方、準備の仕方、議論の進め方などで苦労した経験だった。そして、何より生徒会活動で味わった挫折感は人間としての修養として欠かせないものだったといえよう。
もし、生徒会活動をしていなかったら、もっと別のタイプの弁護士になっていたと思う。