曙の光、歓喜溢れ、今鳩が飛び立つ
僕は、高らかにシュプレヒコールの第一声を上げた。1972年真駒内曙中学校開校記念式典のことである。
僕は、真駒内小学校から真駒内中学校に進学し、2年の二学期から、新設の真駒内曙中学校に転校した。曙中学校の校舎は1972年に開催された札幌オリンピックの大会運営本部が置かれていた建物で、施設の有効利用のため、オリンピック後は中学校として利用されることが予定されていた。真駒内アイスアリーナのちょうど東向かいにある中学校だ。
当時はグランドがなく、グランドの建設予定地にはハルニレが生えていたが、結局、一本のハルニレはグランドの中心に残されている。グランドの真ん中に巨木がある中学校など全国にここだけではないだろうか。最近、この巨木にエゾモモンガが棲み着いている様子がNHKの番組で取り上げられた。何となくうれしい話だ。
転校したのは周囲に住む中学校の生徒2年生と1年生だけだったが、それまで一学年9クラスあった真駒内中学校とは違い、各学年ともクラスは5クラスしかなかったので、学年を越え全校生徒全員見覚えがある顔だった。それほど、親しかった。
何もかも一から自分たちで作っていくんだという気持ちをどの生徒も持っていた。
熱心な教諭陣NHK合唱コンクール優秀校も経験
初代校長の安藤勝夫先生は、「南の王者たれ」というスローガンを掲げ、本当に熱心に仕事をされていた。後に、お聞きした話だが、安藤校長は新設校にふさわしく、実力のある教師を集めたということであった。確かに、どの先生もやる気に満ちていた。
やる気といえば、生徒と先生のやる気が結びついていた代表格が合唱部だろう。僕は顔に似合わず(?)合唱部に入っていた。熱血指導の鈴木典子先生の指導の下、合唱部は創部2年目で、今でも合唱をする若者の目標となっているNHK合唱コンクールで地区大会優秀校(2位)になるなどめざましい活躍を遂げた。
今は男子が集まらないため、中学校では女声合唱が多いようであるが、当時は、混声合唱であった。クラス、学年、男女の枠を超えて、いろいろな仲間ができた。憧れの女子生徒とも内心の恋心を隠しつつ、楽しく話ができた。そして、それだけで幸せだったのである。
「私を男にしてください」選挙の決め台詞で初代生徒会会長に
私は、新設校に入ったという高揚感から、生徒会設立準備委員会委員長となり、さらに、初代の生徒会会長を決める役員選挙に立候補した。Y君という有力候補者との選挙となった。一生懸命ポスターと立会演説会の原稿を自分で作り、予行練習をして演説をした。この演説で「私を男にしてください」という下りが気に入ってもらえたのか、下級生の票を多く獲得でき、見事当選、1年間生徒会長を務めることとなった。
生徒会役員会は、他に副会長2名、書記2名、会計1名の総勢6名であったが、役職名に関わらず、生徒会の設立準備のため、一体になって、放課後遅くまで生徒会の仕事をしていた。昼休み時間も生徒会室に詰めるくらいの熱の入れようだった。
生徒会の指導は、奈良公雄先生(生徒会役員会では、「ナラセン」と呼んでいた。)であった。奈良公雄先生には、生徒会会長としての挨拶の仕方、挨拶文のチェック、言動などいろいろなことを指導していただいた。今、北大ロースクールの非常勤講師や修習生の指導を経験し、身に沁みて分かるのだが、教師の仕事をしながら、生徒会の指導を担当するということは本当に大変だったのではないかと思う。
生徒総会の準備で土曜日の午後も居残りで役員会全員で作業をしていたある日、奈良先生と一緒にラーメンを食べに行ったことがある。先生はみんなにラーメンをおごってくれたが「食欲がわかない」と言って自分はお子様ラーメンを頼んでいたのを覚えている。
奈良先生とは中学校卒業間近になって、こちらもそれなりに成長してくるとかなり大人の議論もしていたように思う。そういう会話を先生とできたことは、僕にとって本当に貴重なことだったように思う。
テレビドラマのような真駒内曙中学校時代
生徒会活動では、いろいろな人の意見を聞き、それを集約し、方針を決めたら、それを実践していく。そして、それが達成されていくという貴重な、今ではあり得ない成功体験をすることができた。
ノスタルジックな思いが記憶を美化しているかもしれないが、周囲の人々と意思疎通ができ、それを達成する喜びを分かち合えたのは確かだ。それが曙中学校時代だった。高校、大学、社会人となってしまうと、さまざまな人間が入り乱れ、簡単には物事は決まらない。僕にとって、まさしく真駒内曙中学校の1年半は、テレビドラマや学園漫画に出てくるような現実にはあり得ない夢のような世界だった。