コラム

2020.11.20

【1963年~】幻の街「真駒内」 ~幼き日の原風景~

アメリカの片田舎のような風景。

幼稚園から高校1年まで、真駒内で過ごした約10年間が幼い日の原風景だ。物心がついた頃住んでいたのは、美香保公園の近くだったが、幼稚園に入る頃真駒内の市営団地に移った。当時の真駒内は、今思えば、アメリカの片田舎のようなところだった。真駒内アイスアリーナのところには進駐軍(第二次世界大戦後の米軍)が残したゴルフ場、五輪団地の場所には進駐軍が残した白亜の住宅があって警察学校と警察職員の住宅になっていた。元進駐軍がいた住宅地は芝生が敷きつめられ、歩道には大きなコンクリート板がドミノのように並べられ小道を造っていた。ナナカマドやオンコの木が植栽されていて、緑の中にナナカマドの実の赤い点々がアクセントになっている、トンネルのような小道を自転車でゆっくり駆け抜けるのが大好きだった。
その頃住んでいたのはC団地。当時の真駒内にはいわゆる文化住宅が建ち並んでいた。団地には機械的にアルファベットがふられ、竣工した順番にA、B、Cと名づけられ、H団地まであったように思う。ベビーブームの後でもあり、団地には子どもが溢れ、団地の真ん中にあった遊園施設ではいつも誰かが遊んでいた。C団地は18棟あり、その1棟に6軒が入る長屋形式。僕が住んでいたのは16棟1号室である。ここは、遊園施設をいつも見渡せる絶好のすまいだった。

日が沈むまで野球をしていた。

小学校は団地のすぐ隣で、歩いて10分。家が近いせいか、よく忘れ物をした。給食を食べた後(休み時間)に忘れ物を取りに帰り、急に走ったせいでお腹が痛くなったことが何度もあった。
真駒内小学校は白い壁の洒落た建物だったが、まだ暖房は石炭ストーブの時代。当時、体格がよかった僕は石炭当番をよくやらされた。アルミの入れ物に石炭を入れて、石炭小屋から教室までえっちらおっちら運んだのを覚えている。
朝は朝礼が始まるまで、ほとんどの生徒がグランドで遊んでいた(当時同じクラスに渋谷智也という運動神経抜群の生徒がいた。彼は今、劇団四季の俳優になっている)。昼休みも晴れた日はグランドで、雨の日は体育館で遊んだ。教室に残っている生徒はほとんどいなかった。学校が終わるとたいていは草野球をして過ごした。野球といっても当時よくやっていたのはソフトボールの方で、毎日、暗くなるまで野球をやって、日が沈む頃になると友だちの母親が迎えに来て、一人ずついなくなっていった。僕の母も時々迎えに来てくれた。

桜山 クワガタ おっぱいアイス。

休みの日は父とC団地の裏にある桜山に行くのが楽しみだった。当時、桜山の麓には定山渓鉄道があり、札幌駅から定山渓まで小さい鉄道が走っていた。定山渓鉄道の線路を越えて桜山に上ると、山の中腹には尾根に沿うように小道があり、この小道が最高の冒険ロードになっていた。
父と一緒に、虫取り網と虫かごを持って、この道をゆっくり歩くと、蝉やクワガタ、蝶などたくさん採取できた。腐りかけた木の裏に回って、クワガタを見つけた時の感動は忘れられない。
お風呂は公衆浴場を利用していた。歩いて15分くらいかけて、商店街にある風呂に行くのである。風呂はいつも満杯で、行くと友だちもたくさん入りに来ていた。自宅の風呂に入るようになったのは、高校になって手稲に引越しをしてからである。風呂の帰り、ソーダアイスやおっぱいアイス(球体になっていて、乳首状の突起部分を食い破って内部から溶けたアイスをすするという色っぽい氷菓子)を食べながら、風呂敷に入れた桶をひっさげて行き帰りした。

冬まで鳴いたキリギリス

団地の周囲やちょっとした空き地にはキリギリスが鳴いていた。父はキリギリスを捕る名人だった。静かにキリギリスに近づくと、キリギリスの大好物であるネギをゆっくり差し出し、ネギに食いついたところでそっとキリギリスを持ち上げて捕まえる。僕が真似てもうまくいかず、結局一度も自分で捕まえられなかった。キリギリスは自宅に持ち帰って虫かごで育てるのだが、父がとてもよく世話をして、鰹節やネギを与え、秋が過ぎてストーブをたくようになるまで鳴かせていた。アリとキリギリスという話と違い、わが家ではキリギリスは冬になっても鳴いていたのである。
冬も、よく外で遊んだ。団地に住んでいたので遊び相手には事欠かなかった。放課後のスキーや雪合戦。軒先のつららに雪玉を投げて、大きなつららを競い合って落下させるということも流行っていた。今思えばけっこう危険だったと思う。危険といえば、豪雪の時期、窪地になっている定山渓鉄道の線路敷に降りてしまい、まだ小さかった僕は急な坂を上れず、そのうち暗くなって、坂を上れない僕を見捨てて友だちも帰ってしまうということがあった。心配した母が見つけてくれたからいいようなものの、あのまま放置されていたら、電車にはねられるか、凍死していたのではないだろうか。

札幌オリンピックの前と後で…。

僕は、美しい景観があり、遊び相手がたくさんいる真駒内が大好きで、とても気に入っていた。ところが、その大好きな真駒内が一変するできごとが起きた。1972年の札幌オリンピックの開催だ。定山渓鉄道のあとには地下鉄ができ、警察学校はとりこわされて五輪団地に変身してしまった。僕も小学校から中学校に進学する時期だった。遊びよりも勉強の方が気になってくる時代ということもあったかもしれない。オリンピックの前後で、僕の目に映る真駒内の風景はまったく違って見えた。
ときどき真駒内方面に行くことがあるが、当時の真駒内と今の真駒内は、まったく別の街のように僕には見えてしまう。あの頃の真駒内は自分にとって幻の街である。