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2025.12.13

一月一言・映画「日本沈没」とテレビアニメ「宇宙戦艦ヤマト」と同調圧力

映画「日本沈没」とテレビアニメ「宇宙戦艦ヤマト」。  これら二つの作品には、日本人にとって非常に示唆的な共通点があります。

 それは、「集団の終焉にあたり、全員が同じ運命を選ぶ」という選択肢が、ごく自然なものとして提示され、ほとんど違和感なく受け入れられている点です。

「日本沈没」では、国土沈没が避けられなくなった局面で、首相が“陰の実力者”を訪ね、「この国が沈むとき、どうすべきか」を問いかけます。その際に示される案の一つが、日本という国家と運命を共にし、日本人全員が国土とともに海に沈むというものです。冷静に考えれば、極端で残酷な選択です。しかし、映画の中では、この案は“狂気”として退けられません。一つの「思想的選択肢」として、静かに語られます。誰も叫ばない。誰も否定しない。その沈黙こそが、この場面の異様さを際立たせています。

同じ構造は、「宇宙戦艦ヤマト」にも見られます。地球を救う鍵を握るイスカンダル星に到達したヤマトの乗組員たちは、そこで驚くべき事実を知ります。イスカンダルの人々は、スターシアを除き、すでに全員、安楽死を選び、死に絶えていたのです。使命は果たした。だから、これ以上生き続ける必要はない。この選択を、ヤマトの若者たちは深く疑いません。問い詰めません。そして、視聴者である多くの日本人の若者もまた、この設定を強い違和感なく受け止めていたのではないでしょうか。ここに、日本的な思考の特徴がはっきりと表れています。

これは自己犠牲という美徳の問題にとどまりません。もっと根深い、同調圧力の問題です。同調圧力とは、誰かに強制されるものではありません。命令も、法律も、暴力もいらない。「空気」によって選択肢が一つに収束していく――それが同調圧力の恐ろしさです。日本沈没でも、ヤマトでも、「全員で沈む」「全員で消える」という選択を口にした人物は、他者に強要していません。それにもかかわらず、その案はあたかも“自然な帰結”であるかのように語られます。宇宙戦艦ヤマトの若者たちが、イスカンダルの民の選択に疑問を差し挟まなかったこと。そこに、当時の日本社会の空気が映っていたように思います。「皆が選んだ道なら、それが正しいのだろう」しかし、現実の社会において、その思考は極めて危険です。同調圧力は、人を追い込みます。逃げ道を一つずつ塞ぎ、「他に選択肢はない」と思わせる。

ここで、法律の話になります。法律は、本質的に同調圧力と相性が悪い制度です。なぜなら、法は常にこう問いかけるからです。「あなた個人は、どう考えるのか」「あなたの権利は、どうなっているのか」法は、「みんながそう思っている」という理由を、正当化根拠として採用しません。それどころか、少数者、異論を唱える者、空気に逆らう者を守るために存在しています。しかし、日本社会では、この法の役割が十分に理解されていません。

裁判手続では、集団の全員が同意をしても、1人の人権を奪えないという鉄則があります。多数決でも奪えない権利が人にはあります。それを護るのが法律だと思っています。民主主義は、多数決主義ではありません。政治的には無力でも、1人でも、巨大な国や市、企業、大病院にさえ、勝つことができる。そこに司法の本質があると思います。