お知らせ

2025.12.20

一月一言 江波杏子主演の大映映画「女賭博師」シリーズと司法の共通点

江波杏子主演の「女賭博師」シリーズは、私にとって特別な作品です。 シリーズ全作を観ていますが、その原体験はとても幼い頃にさかのぼります。

当時、父の勤めていた国鉄が大映映画のチケットを従業員家族に配ってくれた時代がありました。小学生だった私は、年何回か、家族と一緒に映画館へ行き、座頭市と女賭博師シリーズの二本立てを観ていました。今思えば、子ども向けとは言い難い内容ですが、あの暗い館内の空気、フィルムの匂い、観客の沈黙は、今でも身体の感覚として残っています。

座頭市は言うまでもなく、剣の達人です。理不尽な暴力に対して、圧倒的な武力で立ち向かう。そこにはカタルシスがあります。一方、女賭博師シリーズは、まったく違う戦いを描いていました。

武力では決着をつけない。 命を奪わない。 勝敗は、壺振りや花札によって決まる。

これこそが、女賭博師シリーズの核心です。しかし、この点は驚くほど評価されていません。多くは「任侠もの」「賭博もの」「妖艶な女性像」として語られますが、本質は別にあります。

女賭博師が戦っているのは、暴力の世界に身を置きながら、暴力を使わないという戦略です。

不正や圧力は存在します。命の危険も常にあります。それでも彼女は、刀を抜きません。殴り合いもしない。 勝負の場を、「ルールのあるゲーム」に限定するのです。

壺振りや花札は、単なる遊戯ではありません。 それは、暴力に代わる秩序です。

ルールがあり、勝敗があり、第三者が見て納得できる結論が出る。 負けた者は、少なくともその場では、刃物を抜く正当性を失います。

これは、極めて洗練された「非武力闘争」です。

ここで、私は自分の仕事を思います。 裁判とは、まさにこの非武力闘争そのものです。

本来、人間同士の争いは、力に訴えれば簡単です。怒鳴る、脅す、殴る、排除する。しかし、それを許してしまえば、社会は無限の報復連鎖に入ります。だから人類は、長い時間をかけて知恵を発展させてきました。

暴力を使わずに、決着をつける方法。

その一つの完成形が、裁判だと思います。

裁判では、腕力も恫喝も意味を持ちません。必要なのは、事実、証拠、そして論理です。勝敗は、感情ではなく、ルールによって決まります。この点で、壺振りや花札と本質的に同じ構造をしています。

裁判とは、暴力に訴えずに済ませるための制度なのです。

作中で、もし女賭博師が最初から刀を抜いていたら、物語は成立しません。死人が出て、報復が続き、終わりのない争いになるでしょう。彼女はそれを分かっている。だからこそ、勝負を賭博の場に限定する。

裁判も同じです。 感情をぶつけ合い始めた瞬間に、非武力闘争としての価値を失います。暴力的な言葉や過激な表現に走れば、非武力闘争の場が崩れてしまう。裁判は、剣を振るう場所ではありません。

弁護士は、依頼者の怒りを煽る存在ではありません。 依頼者が刃物を持たずに済むよう、代わりに札を握る存在です。

この視点が失われると、裁判は単なる言葉の暴力になります。最近、準備書面の記載が過激化していることに、私は強い危惧を覚えます。人格攻撃、挑発的表現、相手を黙らせるための言葉。SNSで飛び交っているような言葉が準備書面に発見すると本当に悲しくなってしまいます。裁判は事実、証拠、そして論理のはずです。準備書面に激しい言葉使って何のメリットがあるのか私には全く理解できません。