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2026.01.23

一月一言・・・映画『砂の器』と、法律における「背景」

風景が語るもの――映画『砂の器』と、法律における「背景」

映画**砂の器**を初めて観たのは、大学生の頃でした。
今はもう存在しない、札幌駅南口から北口へ抜ける地下通路にあった映画館、テアトル「ポー」。封切り料金の半額ほどで観られることもあり、館内は満員で、私は人生で初めて立ち見で映画を観ました。身体は疲れているのに、目だけは画面から離れられなかった。その感覚は、今もはっきりと残っています。

出演していた加藤剛、丹波哲郎、緒形拳、佐分利信、島田陽子、加藤嘉、松山政路、渥美清・・・多くの名優が既に鬼籍に入ってしまわれました。今も活躍しているのは、森田健作、山口果林くらいでしょうか。

「砂の器」といえば、犯罪と宿命を描いた重厚な物語として語られることの多い作品です。しかし、年齢を重ねてから思い返すと、この映画の本当の力は、別のところにあったのではないかと感じるようになりました。

それは、いわゆる**“B班”による背景撮影**の圧倒的な力です。


父と子が歩いた、日本の四季

父と子が歩く、日本各地の風景。
山間の道、川辺、雪の降る村。
春の芽吹き、夏の光、秋の夕暮れ、そして冬の白さ。

それらは物語の合間に、静かに、しかし確実に差し込まれていきます。
この背景描写は、単なる情緒的な映像美ではありません。むしろ、台詞以上に雄弁に、父と子の運命を語っているように思えるのです。

ここで、背景は何も「説明」していません。
ただ、そこに存在しているだけです。
しかし、その存在そのものが、父子の宿命をより深く浮かび上がらせているのです。


違和感さえも、時代の「記録」

学生の頃の私は、物語の筋や犯行のトリックに心を奪われていました。ところが今観返すと、島田陽子さん演じる女性の存在や、彼女が置かれている立場に強い違和感を覚えるようになりました。

我賀英良に都合よく利用され、それでも付き従う姿。今は亡島田陽子さんの存在感が光ります。
一方で、政治家の令嬢という婚約者の前では、まったく異なる力関係が成立している。

けれども、この違和感は作品の価値を下げるものではありません。むしろ逆です。
「砂の器」は、当時の価値観や人間関係を、善悪の評価を挟まず、風景とともにそのまま記録してしまった。その点で、この映画は非常に誠実な作品だと感じます。


背景があるから、行為は理解できる

重要なのは、背景描写があるからこそ、登場人物の行動が理解できるという点です。
もし、父と子の放浪が簡単な説明だけで処理されていたら、観客はここまで深く「運命」を感じ取ることはできなかったでしょう。

そしてこれは、法律の世界でもまったく同じです。

裁判では、「事実が重要だ」「証拠がすべてだ」と言われます。確かにそれは正しい。
しかし、その事実や証拠が、どのような背景の中で生じたのかを理解しなければ、判断は平板になり、ときに不公平なものになります。

同じ行為であっても、

  • どのような経緯で起きたのか

  • 当事者は、どんな人生を歩んできたのか

  • 他に選択肢は本当にあったのか

それらを知って初めて、行為の意味が立ち上がってくるのです。


法律家の仕事と、B班の仕事

法律家の仕事は、条文を機械的に当てはめることではありません。
依頼者の人生という「背景」を、言葉と構造にして裁判所に示すこと――それが本質です。

この役割は、映画におけるB班の仕事によく似ています。
主役を目立たせるために、黙々と風景を撮り続ける。
その積み重ねが、物語全体の説得力を決定づける。

背景事情を軽視すれば、法律は冷酷になります。
しかし、背景ばかりを語っても、法の判断は成立しません。
必要なのは、その両立です。


法律にも、風景がある

「砂の器」は、犯罪映画であると同時に、背景が人間を形づくるという事実を、四季の移ろいによって語った作品でした。説明はなくとも、観る側は自然と理解してしまう。なぜ彼らが、その道を歩まなければならなかったのかを。

私は今、法律家として、あのB班の映像を思い出します。
そして、こう考えるのです。

法律問題においても、背景を知る努力を怠ってはいけない。
背景の中にこそ、人がそうせざるを得なかった理由がある。

テアトルポーで立ち見をしながら感じた、あの圧倒的な余韻。
それは、物語の外側に広がる風景が、静かに語りかけてきたものだったのかもしれません。

法律もまた、風景を持っています。
その風景に目を向けること――それが、公平で、人間的な解決への第一歩なのだと思います。