お知らせ

2026.08.09

閑話休題  映画『アパートの鍵貸します』をもう一度観る

  • 60年以上前の名画

    最近、一度観た映画を、何年か経ってからもう一度観ることがある。 若いころは、せっかく映画を観るなら、まだ観たことのない映画を観たいと思っていた。しかし、年齢を重ねてみると、昔観た映画をもう一度観るのもなかなかいい。 今回観直したのは、ビリー・ワイルダー監督の『アパートの鍵貸します』(原題 The Apartment)である。 1960年のアメリカ映画で、主演はジャック・レモンとシャーリー・マクレーン。アカデミー賞では作品賞、監督賞など5部門を受賞している。 映画が作られた1960年といえば、戦争が終わってまだ15年しか経っていない。 そう考えて観ると、映画のストーリーとは別のところでも、いろいろなことに目が行く。

    1960年のニューヨークと日本

    舞台は、ニューヨークの大手保険会社である。 高層ビルの広大なフロアに、数百人もの従業員が机を並べて働いている。その光景だけでも壮観である。 エレベーターには、それぞれエレベーターガールが乗務している。出発の際にはカスタネットのような器具を鳴らして合図をする。 シャーリー・マクレーン演じるフランも、そのエレベーターガールの一人である。 主人公のC・C・バクスターを演じるのがジャック・レモン。 独身の会社員で、マンハッタンに一人でアパートを借りている。 自宅では冷凍食品を冷蔵庫から取り出し、オーブンで温めて食べる。テレビを離れたところから操作する場面まで出てくる。 今なら何でもない日常の光景である。 しかし、これは1960年の映画である。 当時の札幌には、ニューヨークのような高層ビル群などなかった。冷凍食品も今のように一般家庭に広く普及していた時代ではない。テレビそのものが、まだ家庭の豊かさを象徴するような時代だった。 戦後わずか15年の時点で、ニューヨークでは既にこんな都市生活が営まれていたのか。 今さらながら、当時の日米の経済格差に驚かされる。 古い映画の面白さの一つは、物語だけではない。 その時代の街並み、職場、服装、食生活、男女の働き方、そして人々が当たり前だと思っていた生活そのものが映像として残されている。 映画は、知らず知らずのうちに時代の記録にもなっているのである。

    出世のために「アパートの鍵」を貸す男

    『アパートの鍵貸します』という邦題は、まさに物語そのものを表している。 バクスターは、自分のアパートを会社の上司たちに貸している。 何のために貸すのか。 上司たちが女性と密会する場所として使うためである。 その見返りに、上司たちはバクスターの勤務評価を良くする。 その結果、彼は会社の中で次第に出世していく。 何とも情けない話である。 ところが、ジャック・レモンが演じると、そんな主人公が妙に憎めない。 上司から部屋を貸してくれと言われれば断れない。自分の部屋なのに自分が入れず、寒いニューヨークの街を時間をつぶして歩く羽目になる。 それでも出世のために我慢する。 組織の中で上司に気に入られようとするサラリーマンの悲哀は、1960年のニューヨークであろうと、どこか普遍的なものがある。

    恋した女性と上司

    そんなバクスターが恋をする。 相手は、会社のエレベーターガール、フラン・キューブリックである。 ところが、やがてバクスターは、フランが自分を引き上げてくれた会社の上役と交際していることを知る。 しかも、自分が上司たちに提供してきた、あのアパートが二人の関係にもかかわってくる。 ここから物語は、単純なロマンティック・コメディーではなくなっていく。 出世のためなら、どこまで自分を曲げるのか。 会社の中で「うまくやる」とは、いったいどういうことなのか。 人を好きになるとはどういうことなのか。 そして最後には、自分自身を大切にして生きるとはどういうことなのか。 映画は笑いを交えながら、そんな問題を観客に突きつけてくる。 しかも、決して説教臭くない。 そこがビリー・ワイルダーのうまさなのだろう。

    ラストシーンのシャーリー・マクレーン

    今回改めて観て、特に印象に残ったのはシャーリー・マクレーンである。 彼女が演じるフランは、明るく振る舞ってはいるものの、映画の中ではどこか影を漂わせている。 報われない恋愛に悩みながら、それでも簡単にはそこから抜け出すことができない。 その寂しさや危うさを、シャーリー・マクレーンは大げさな演技ではなく、表情やちょっとした仕草で見せている。 ところが、ラストシーンになると、その表情が変わる。 私は、この映画の中で、ラストシーンのシャーリー・マクレーンが一番美しく描かれているように思う。 それまで彼女を覆っていた影が、すっと消えたように見えるのである。 そして、あの有名な最後のやり取りになる。 実に洒落たラストシーンである。 大げさな愛の言葉があるわけではない。 しかし、そこに至るまでの二人をずっと見てきた観客には、それで十分なのである。 ジャック・レモンとシャーリー・マクレーンの演技はもちろんだが、脚本も実によくできている。 何気なく登場した小道具や会話、ちょっとした出来事が、後になって別の意味を持ってくる。 いくつものエピソードが伏線となり、それが最後に向かってきれいに回収されていく。 一度目はストーリーを追って観る。 二度目は結末を知っているからこそ、 「ここが、あの場面につながっていたのか」 と気づく。 これも、名画を再び観る楽しみである。

    北大法学部の給湯室で映画を論じたころ

    私が『アパートの鍵貸します』を初めて観たのは、司法試験の受験生だったころである。 当時、NHKでは名画を放送する番組があり、そこで古今の名作映画を観ることができた。 北大法学部の給湯室には司法試験受験生が集まっていたが、一時期、前夜に放送された名画を観て、翌日、その映画について議論することがちょっとしたブームになったことがある。 司法試験受験生の議論だから、単に、 「面白かった」 「この俳優が良かった」 だけでは終わらない。 「あの場面は、この後の展開の伏線だったのではないか」 「いや、その前の場面から既に伏線が張られていた」 などと、映画の構成について議論する。 さらに、映画の中で事件や揉め事が起きれば、 「これを法律的に考えると、どうなるのだろう」 という話になる。 映画を観ているときまで、司法試験受験生なのである。 『アパートの鍵貸します』などは、考えてみれば議論の材料には事欠かない。 会社の上司と部下との関係、人事評価と昇進、上司からの要求、職場内の男女関係、そして主人公が上司のために自宅を提供するという奇妙な関係。 もちろん、映画を法律問題として分析するために観ていたわけではない。 それでも、毎日法律を勉強している若者が何人も集まれば、いつの間にか法律の話になってしまう。 法律の議論をしたかと思えば、次には映画の伏線について議論する。 今から思えば、司法試験の勉強の合間の、なかなか楽しい、そして贅沢な時間だった。 あのころ、いろいろな名画を観たはずである。 しかし、何十年経っても、とりわけ記憶に残っているのが、この『アパートの鍵貸します』なのである。

    小学生のころ母と観た『お熱いのがお好き』

    ジャック・レモンといえば、私にはもう一本、忘れられない映画がある。 同じビリー・ワイルダー監督の『お熱いのがお好き』である。 こちらはもっと昔、小学生のころに母親と自宅のテレビで観た記憶がある。 淀川長治さんの名司会で知られた日曜洋画劇場だったと思う。 『お熱いのがお好き』は、小学生にも分かりやすく、とにかく楽しい映画だった。 ジャック・レモン、トニー・カーティス、そしてマリリン・モンロー。 ギャングから逃げるために男性二人が女装して女性楽団に紛れ込むという、何とも荒唐無稽な話なのだが、今観ても実に面白い。 子供のころに観た映画というのは、映画の内容だけではなく、 「誰と観たのか」 という記憶まで一緒に残っていることがある。 私にとって『お熱いのがお好き』は、ジャック・レモンやマリリン・モンローの映画であると同時に、母親と一緒にテレビの前で観た映画でもある。

    映画の中のホテルを訪ねる

    『お熱いのがお好き』の劇中の舞台はフロリダだが、ホテルの場面の撮影には、カリフォルニア州サンディエゴ近郊のコロナドにある歴史的なホテル、ホテル・デル・コロナドが使われている。 私は2000年にサンディエゴを旅行した際、このホテルを訪れた。 「あの映画に出てきたホテルが、ここなのか」 小学生のころ、母親と自宅のテレビで観た映画の場所に、何十年も経って自分が実際に立っている。 感慨深いものがあった。 同じようなことは、ニューヨークを訪れたときにもあった。 摩天楼を見上げながら、 「ジャック・レモンが働いていた会社も、こんなビルだったのだろうか」 などと思った。 映画の中で見たアメリカと、後年、自分自身が歩いたアメリカ。 そこに何十年という時間を隔てた自分自身の記憶が重なってくる。

    同じ映画でも、観る自分が変わっている

    若いころは、新しい映画を観たいと思った。 まだ知らないストーリー、まだ見たことのない映像、新しい刺激を求めていたのだろう。 もちろん、今でも新しい映画やドラマは面白い。 しかし最近は、一度観た映画をもう一度観ることにも、別の楽しさを感じるようになった。 結末を知っているからこそ、細かな演技や台詞、小道具に目が向く。 若いころには気づかなかった伏線に気づく。 そして、若いころにはよく分からなかった登場人物の気持ちが、何十年か経ってから分かることもある。 映画は変わっていない。 変わったのは、それを観る自分の方なのである。

    昔の映画を観ることは、昔の自分に会うこと

    『アパートの鍵貸します』を観れば、司法試験の勉強をしていたころの自分を思い出す。 北大法学部の給湯室で、仲間たちと映画の伏線について議論し、ついには法律問題まで論じていた自分たちを思い出す。 『お熱いのがお好き』を観れば、小学生だった自分と、一緒にテレビを観ていた母親を思い出す。 ホテル・デル・コロナドを見れば、2000年にサンディエゴを旅した自分を思い出す。 ニューヨークの摩天楼を思い出せば、そこにはまた『アパートの鍵貸します』のジャック・レモンが重なってくる。 一つの映画に、人生のいくつもの時代の記憶が重なっているのである。 今は、古い映画やドラマを気軽に観ることのできる時代になった。 次から次へと新しい作品を追いかけるのもいい。 しかし、ときには50年、60年前の映画を選んで、じっくり、ゆっくり観てみるのもいいものだ。 昔の映画をもう一度観るということは、単に同じ映画を二度観ることではないのかもしれない。 映画を再発見するとともに、その映画を観ていたころの自分を振り返る。 そして、あのころには見えなかったものを、今の自分の目でもう一度見る。 映画は昔のままである。 けれども、観る自分は歳月とともに変わっている。 だから名画は、何十年経って観直しても、また新しい。 『アパートの鍵貸します』を観終えて、そんなことを思った。  
2026.08.04

お盆休業のお知らせ 【休業期間】 令和8年8月12日(水)~8月14日(金)

  • お盆休業のお知らせ
  • 平素より弁護士法人高橋智法律事務所をご利用いただき、誠にありがとうございます。
  • 誠に勝手ながら、当事務所は下記の期間をお盆休業とさせていただきます。
  • 【休業期間】 令和8年8月12日(水)~8月14日(金)
  • 休業期間中にいただきましたお問い合わせ(メール・お問い合わせフォーム等)につきましては、8月17日(月)以降、順次対応させていただきます。
  • ご不便をおかけいたしますが、より良いリーガルサービスをご提供できるよう努めてまいりますので、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。
  • 暑さ厳しき折、皆様におかれましては、どうぞ健やかにお過ごしください。
  • 弁護士法人高橋智法律事務所
2026.08.02

「おおごとにしたくない」と思ったときこそ、専門家に相談してください・・・一月一言

~内容証明、調停、裁判は「紛争を大きくするもの」ではなく、「解決するための制度」です~

「弁護士に相談するほどのことではないと思います。」 「できれば大事にはしたくありません。」 「まずは内容証明を一本送ってもらえれば十分です。」 法律相談では、このようなお話を伺うことが少なくありません。 しかし、長年弁護士として多くの紛争に携わってきた経験から申し上げれば、このような考え方が、かえって問題を長引かせてしまうことがあります。

弁護士に相談する時点で、すでに紛争は始まっています

「弁護士に依頼すると大事になる。」 そのように考える方は少なくありません。 しかし、冷静に考えてみると、弁護士に相談しようかと悩むほどの状況になっている時点で、すでに紛争は始まっています。 弁護士に依頼したから問題が大きくなるのではありません。 問題が大きくなっているからこそ、弁護士への相談を考える状況になっているのです。 これは、火事が起きているにもかかわらず、 「消防車を呼んだら大事になるから呼ばない。」 と言っているのと同じです。 消防車が火事を大きくするのではありません。火事が起きているから消防車が必要なのです。 法律問題も同じです。 弁護士は紛争を大きくする存在ではなく、できるだけ早く鎮静化し、適切に解決へ導くために存在しています。

法律は「解決の物差し」です

紛争の多くは、「自分が正しい」「相手が間違っている」という感情の対立から始まります。 しかし、感情だけでは解決できません。 そこで用いられるのが法律です。 法律は、紛争を解決するための「物差し」です。 例えば、二人が「どちらの取り分が多いか」で争っているとします。 感情だけで話し合えば結論は出ません。 しかし、「重さで分けましょう」「市場価格で評価しましょう」という共通の基準があれば、話し合いは前へ進みます。 相続には相続法という物差しがあり、離婚には財産分与や慰謝料を判断する物差しがあります。 弁護士の仕事は、その物差しを使って依頼者と一緒に解決への道筋を考えることです。

「内容証明一本で解決する」という時代ではありません

依頼者の方から、 「内容証明を一本送ってください。」 と依頼されることがあります。 いわば「内容証明神話」です。 私が弁護士になったばかりの頃、先輩弁護士からこんな話を聞かされたことがあります。 「内容証明を送って相手方の夫を事務所へ呼び出し、厳しく説諭したところ、その場で離婚が成立した。」 当時は、そのようなこともあったのでしょう。 確かに、かつては弁護士名で内容証明郵便が届けば、相手方が事態を重く受け止め、速やかに対応するケースも少なくありませんでした。 しかし、現在では事情が大きく変わっています。 特殊詐欺などの影響もあり、「本当に弁護士から送られたものなのだろうか」と疑われることさえあります。 また、「裁判になったら考えよう」と受け止める相手方も珍しくありません。 内容証明郵便そのものに相手方へ支払いや謝罪を強制する効力はありません。 証明できるのは、「いつ」「誰に」「どのような内容の文書を送ったか」という事実です。 もちろん重要な法的手段ではありますが、それだけで事件が解決するとは限らないのです。

内容証明は「最初の一手」にすぎません

実際、「内容証明は送ったのですが、その後どうしたらよいのでしょうか。」という相談を受けることがあります。 そのような場合、内容証明を送ること自体が目的になってしまっています。 しかし、本来重要なのは、その後です。 相手方が応じなければどうするのか。 交渉を続けるのか、調停を申し立てるのか、訴訟を提起するのか。 内容証明はゴールではありません。 解決に向けたスタートラインなのです。 だからこそ、まず弁護士に相談し、事件全体の見通しを立てた上で、必要であれば内容証明を送り、その先の交渉や調停、訴訟まで見据えた戦略を立てることが重要になります。

裁判を恐れる必要はありません

「裁判にはなりたくありません。」 これも法律相談でよく耳にする言葉です。 もちろん、裁判は誰にとっても望ましいものではありません。 しかし、裁判は人を困らせるための制度ではありません。 困っている人を救済するために、社会が整備した制度です。 特に調停は、一般の方がイメージされるような厳しい手続とは異なります。 非公開で行われるためプライバシーが守られ、裁判所の調停委員が双方の話を丁寧に聞きながら、合意による解決を目指します。 費用も比較的低額で利用することができます。 社会は、多くの税金を投入して、このような紛争解決制度を整備しています。 必要な場面でこれらを利用することは、決して特別なことではありません。

制度を利用することは、弱さではありません

このことを考えるたびに、私は介護保険制度を思い浮かべます。 長年介護保険料を支払ってきたにもかかわらず、 「まだ自分は年寄りではない。」 「デイサービスには行きたくない。」 そう言って利用を拒み続ける方は少なくありません。 しかし、その制度は、困ったときに利用するために存在しています。 利用することは、恥ずかしいことでも、負けでもありません。 法律も同じです。 弁護士に相談することも、調停を申し立てることも、裁判を利用することも、自分の権利を守るために社会が用意した制度を適切に活用しているだけなのです。

おわりに

弁護士の仕事は、内容証明を一本書くことではありません。 依頼者のお話を丁寧に伺い、法律という物差しを用いて問題を整理し、交渉、調停、訴訟まで見据えた解決への道筋を設計することです。 社会には、困っている人を支えるために、多くの制度が用意されています。 弁護士への相談、内容証明、調停、裁判──これらは、紛争を大きくするための制度ではありません。紛争を適切に解決するための制度です。 制度を恐れて利用をためらうよりも、必要なときに適切に活用することが、問題を最も早く、そして最も穏やかに解決する近道です。 一人で抱え込まず、まずは専門家に相談してください。 その一歩が、解決への第一歩になるはずです。
2026.07.24

競争の公平性を考える ・・・プロ野球のペナントレースをみて・・・一月一言

― 競争の公平性について考える ―

私は、スポーツを見ることも、自分でプレーすることも好きです。 プロ野球を観戦し、休日には草テニスの大会にも参加しています。 そして弁護士としては、医療事故や交通事故などで、巨大な病院や企業、保険会社を相手に、患者さんや被害者の代理人を務めることが少なくありません。 一見すると全く別の世界ですが、私の中では一本の共通した考え方があります。 それは、 「勝者は、敗者によって支えられている。」 ということです。

ソフトバンクは強い

今シーズンのパ・リーグは、ソフトバンクホークスが独走態勢に入りつつあります。 近藤健介選手、山川穂高選手、モイネロ投手、オスナ投手……。資金力を背景に戦力を整え、育成制度も充実させ、圧倒的な戦力を築き上げています。 その企業努力と経営手腕は、高く評価されるべきでしょう。 しかし、私は以前から一つ疑問を抱いています。 リーグ全体として、本当にこれでよいのでしょうか。

夢を見ることができるのは春だけなのか

ソフトバンクファンにとっては、これほど幸せな時代はないでしょう。 しかし、ソフトバンクファン以外の多くのファンが一年で最も幸せを感じるのは、キャンプやオープン戦の時期ではないでしょうか。 「今年こそ優勝できる。」 「若手が育ってきた。」 「新外国人が活躍してくれるかもしれない。」 開幕前には、どの球団のファンも平等に夢を見ることができます。 ところが、シーズンが始まり、交流戦が終わり、オールスターが近づく頃には、その夢は少しずつしぼみ始めます。 「今年もソフトバンクか。」 そんな空気が漂い始めることが、リーグ全体にとって本当に幸せなことなのか、私は疑問に思います。

強者がいることと、競争が面白いことは違う

スポーツは、強い者が勝つ世界です。 しかし、強者だけが勝ち続ける世界は、必ずしも面白い世界ではありません。 だからこそ、パ・リーグはかつて前後期二シーズン制を導入し、現在はクライマックスシリーズを採用しています。 世界にはサラリーキャップ制度や完全ウェーバー方式を導入しているリーグもあります。 いずれも、「競争を面白くする」ための制度です。 リーグ運営とは、最強のチームを決めることだけではありません。 六球団すべてのファンが最後まで夢を持てる環境を整えることも、大切な役割ではないでしょうか。

優勝を目指さない球団にも課題がある

もっとも、制度だけを議論すればよいわけではありません。 球団側にも責任があります。 資金力の差はあるとしても、優勝を本気で目指しているのか疑問を抱かせる球団が存在することも否定できません。 競争は、挑戦する者がいて初めて成立します。 もし、経営の安定だけを優先し、優勝を目指す努力が十分でない球団があるとすれば、それもまたリーグの魅力を損なう要因になります。 将来的には、一部・二部リーグ制や昇降格制度のように、球団経営にも適度な緊張感を与える制度を議論する余地があるのかもしれません。

裁判もまた、公平な競争である

法律家として、この問題は「競争の公平性」の問題として考えています。 もし裁判が、「お金を多く払って有名な弁護士を雇えば必ず勝てる」という制度だったらどうでしょう。 そんな裁判制度を、誰も信用しなくなるでしょう。 裁判は、証拠と法律に基づいて判断されるからこそ、公正な制度として社会から信頼されています。 もちろん、優秀な弁護士ほど良い結果を導く可能性は高くなります。 しかし、それは「お金で勝敗を買う」ということとは本質的に異なります。 スポーツも同じではないでしょうか。 資金力は重要です。 しかし、資金力だけで長期間にわたり勝敗がほぼ決まるような構造になれば、競争そのものへの期待は次第に失われていきます。

私が大リーグに惹かれない理由

私自身、大リーグをあまり見ることがありません。 もちろん、大谷翔平選手をはじめ、世界最高峰のプレーには心から敬意を抱いています。 しかし、リーグ全体を見ると、球団による資金力の差があまりにも大きく、「お金をかけた者が勝つ」という色彩が強く感じられます。 そのような競争には、どうしても心が躍りません。 私は、挑戦者にも勝機がある競争の方に魅力を感じます。

草テニスが教えてくれたこと

この考え方は、私が参加している草テニス大会でも変わりません。 大会では、優勝者や上位入賞者に賞品が贈られることが少なくありません。 もちろん、その実力は称えられるべきです。 しかし、その賞品の原資は、参加者全員が支払った参加費です。 優勝者が存在できるのは、多くの参加者が試合をし、敗者となってくれたからです。 敗者がいなければ、勝者も存在しません。 私は以前から、実力者が参加費によって集められた賞品を受け取ることに、少し違和感を抱いていました。 草大会の目的は、プロのように賞金を争うことではありません。 スポーツを楽しみ、人と交流することです。 それならば、勝者には表彰状やトロフィーという名誉を贈り、賞品は抽選会や参加賞として参加者全体に還元する方が、大会本来の目的にかなっているように思います。

弱い立場の人を支える仕事

私が患者側の代理人を務めることが多いのも、偶然ではないのでしょう。 巨大病院や企業、保険会社と向き合う依頼者は、多くの場合、社会的にも経済的にも弱い立場にあります。 私は、そのような方々とともに歩み、強い相手に挑む仕事をしてきました。 だからでしょうか。 スポーツを見ても、自然と挑戦者を応援してしまいます。 強者を倒そうとする姿に、人は心を動かされるのではないでしょうか。

おわりに

私は、勝者を否定しているのではありません。 勝者には、その努力と実力に対して最大限の敬意を払います。 しかし、勝者だけが競争をつくっているのではありません。 敗れた人、挑戦した人、参加した人がいて、初めて勝者が存在します。 競争とは、勝者だけのものではないのです。 だから私は、スポーツでも、裁判でも、社会でも、「競争の公平性」を大切にしたいと思っています。 そして、もう一つ、大切にしたいことがあります。 挑戦する者が報われる社会であってほしい。 それは、必ずしも勝利や優勝だけを意味するものではありません。 力の差があっても挑戦することに価値があり、その努力が尊重され、「来年こそは」「次こそは」という希望を持ち続けられる社会であってほしいということです。 私は弁護士として、多くの患者さんや交通事故の被害者など、社会的に弱い立場に置かれた方々とともに歩んできました。 その方々に共通していたのは、強い相手だからといって諦めず、一歩を踏み出した「挑戦者」であったということです。 私は、そのような挑戦者を支える仕事に誇りを持っています。 だからこそ、スポーツでも、裁判でも、社会でも、挑戦する者に夢があり、希望があり、その努力が正当に報われる仕組みであってほしいと願っています。 勝者は、敗者によって支えられています。 そして、社会は、挑戦し続ける人たちによって前へ進んでいきます。 私は、そのような社会であってほしいと心から願っています。  
2026.07.05

司法のIT化が問いかけるもの――「便利さ」の先にある司法の未来 *** 一月一言

はじめに――IT化ありきの議論でよいのでしょうか

本日付の北海道新聞には、「弁護士が裁判所へ行く時間を節約できる」等、裁判手続のIT化を高く評価する記事が掲載されていました。 私は、この記事を読み、一抹の寂しさを覚えました。記事全体が、「司法のIT化は望ましい」という大前提の上に立って論じられており、その前提そのものを問い直す視点が見当たらなかったからです。もちろん、IT化によって裁判へのアクセスが改善され、時間や費用が節約されるという利点は否定できません。しかし、その一方で、司法のIT化に危惧を抱いている弁護士も少なくありません。報道機関には、IT化を推進する立場だけではなく、それに慎重な立場や反対する立場の弁護士や研究者の意見にも耳を傾け、多角的な視点から国民に問題提起をしていただきたいと思います。司法制度は、一度大きく形を変えてしまえば、簡単には元に戻せないからです。

IT化は「場所」という概念を変えた

私は、パソコンがスタンドアロンで利用されていた時代から、LAN、インターネット、そしてクラウドへと発展していく時代を経験してきました。現在では、自宅でも出張先でも事務所と変わらない仕事ができます。会社へ出勤しなくても仕事ができる時代です。職場へ行かなければ苦手な上司と顔を合わせなくても済みます。企業にとっても、「会社はどこにあってもよい」という考え方が当たり前になりつつあります。IT化とは、単に仕事の方法を変えたのではありません。「場所」という概念そのものを変えてしまったのです。

裁判所も「場所」でなくなるのか

この流れは、司法にも及んでいます。現在の民事裁判では、その気になれば、弁護士は一度も裁判所へ行くことなく、一度も裁判官や相手方代理人と直接顔を合わせることなく、判決まで事件を終えることができます。確かに便利です。しかし、その先にある未来を考えたことがあるでしょうか。現在でも、刑事事件を除けば、民事事件で弁護士が裁判所へ来る機会は著しく減っています。そうなると、弁護士控室も、和解室も、大きな待合スペースも必要なくなります。裁判所に必要なのは、裁判官の執務室とコンピュータ設備だけということになりかねません。そうなれば、地方裁判所支部は次々と廃止・統合され、まずは札幌へ集約されるでしょう。さらに進めば、東京に巨大な「メガ裁判所」を設置し、全国の事件を集中的に処理し、地方には最小限の窓口だけを置くという未来も十分考えられます。これは決して空想ではありません。現在、多くの企業では札幌支店を廃止し、本社へ機能を集約する動きが進んでいます。社員はインターネットを利用して仕事ができるのですから、企業としては合理的な判断です。しかし、裁判所は企業ではありません。地域社会に司法機関が存在すること自体に、大きな意味があるはずです。

私が今も裁判所へ足を運ぶ理由

私は、現在でも、できる限り裁判所へ足を運ぶようにしています。事務所を札幌地方裁判所から徒歩五分ほどの場所に構えているのも、そのためです。オンラインで済ませることもできます。しかし、それであれば、高い賃料を支払って裁判所の近くに事務所を借りる意味がありません。実際には、私より裁判所に近い場所に事務所を構えている弁護士であっても、ほとんど裁判所へ来なくなりました。往復わずか10分程度の時間を節約することが、本当に司法にとって大きな利益なのでしょうか。私は、節約できる時間以上に、失っているものの方がはるかに大きいと思っています。ちなみに、裁判所に足を運びたいと書記官の方に説明をしたら、私がITに対応できていない弁護士という前提でお話をしてくる方がいます。私は全てのITシステムに対応できますが、あえて、裁判所に出向いていますと都度説明をしています。

裁判所から「熱気」が消えた

最近、日中に裁判所へ行くと、その静けさに驚かされます。以前は、法廷前のホールには和解を待つ当事者や代理人があふれ、裁判所全体に独特の熱気がありました。依頼者は緊張した面持ちで期日を待ち、和解が成立すれば安堵の表情を浮かべる。代理人同士が廊下で議論を交わし、裁判官と何気ない会話を交わす。若い弁護士は、その空気の中で先輩弁護士の仕事を見て学び、裁判所という文化に触れながら成長していきました。裁判所は、単に事件を処理する施設ではありません。法曹三者が互いに顔を合わせ、信頼関係を築き、司法文化を育んできた場所でもあったのです。しかし、今、その光景はありません。ホールは閑散とし、人影もまばらです。かつての熱気は消え、まるで砂漠のような静けさが広がっています。私は、この変化を「効率化」という一言だけで片付けることはできません。

司法の直接主義が失われる

私は、一度も直接会ったことのない裁判官に、自分の依頼者の人生を左右する判断を委ねたいとは思いません。裁判とは、書類だけを読む作業ではありません。裁判官、当事者、代理人が同じ空間で事件に向き合い、その空気や緊張感も含めて真実を探究する営みです。 これこそが、司法における直接主義の本質ではないでしょうか。その価値は、効率性だけでは測ることができません。

AI裁判官の時代は来るのか

裁判官と直接会うこともなく、事件がすべてオンラインで処理されるようになれば、人々は裁判官がどのような人物なのかにも関心を持たなくなるでしょう。そうなれば、「AI裁判官」が事件を判断してもよいではないかという議論が現実味を帯びてきます。書面を読み、判例を検索し、法令を適用するだけであれば、AIの方が速く、正確かもしれません。しかし、裁判とは単なる情報処理ではありません。人が人を裁く制度だからこそ、人間の裁判官が存在する意味があるのです。

おわりに――便利さだけで司法を語ってはならない

私は、司法のIT化そのものを否定しているわけではありません。IT化によって、裁判を利用しやすくなり、時間や費用が節約されることは歓迎すべき改革です。しかし、その便利さの陰で失われるものについては、ほとんど議論されていません。地域に裁判所が存在する意味。 裁判官、当事者、代理人が直接向き合う意味。裁判所という空間が育んできた司法文化の意味。これらは、決して効率性だけでは評価できない価値です。司法は、単なる行政サービスではありません。人が人の人生を判断するという、国家の根幹を支える営みです。だからこそ、司法のIT化を礼賛するだけではなく、その光と影の双方を見据え、「私たちはどのような司法を次の世代に残すのか」を、今こそ真剣に議論すべき時期に来ているのではないでしょうか。
2026.06.27

法は、使われてこそ人を守る ― 人はなぜ権利を行使することをためらうのか ―・・・ 一月一言

はじめに

日本の民法が施行されてから、既に百年以上が経過しました。また、日本国憲法の制定に伴う家族法の大改正からも半世紀以上を経ています。裁判制度や弁護士制度もまた、長い年月をかけて整備され、今日では世界に誇るべき法制度となっています。民法や民事訴訟法は、市民一人ひとりが裁判所という中立・公平な場において、自らの主張を述べ、証拠を提出し、裁判官による公正な判断を受けることを保障する制度です。しかし、どれほど優れた制度であっても、それが利用されなければ意味はありません。私は弁護士として日々相談を受ける中で、そのことを痛感しています。

法廷は、法の下の平等が実現される場所

裁判所では、当事者の社会的地位や経済力は、本来判断基準にはなりません。 相手が大企業であろうと、資産家であろうと、男性であろうと、行政機関であろうと、裁判官が判断するのは、法律上の要件を満たしているかどうかという一点です。 経済的弱者であっても、高齢者であっても、女性であっても、誰もが法の下の平等という憲法の理念に基づき、公平な判断を受けることができます。 これこそが、日本の司法制度の最も重要な価値であると私は考えています。

家庭や職場は、必ずしも平等な空間ではない

一方で、私たちの日常生活は、必ずしもそのような平等な世界ではありません。家庭では、力関係や経済力が支配することがあります。会社では上下関係があり、学校では多数派の論理が優先されることがあります。地域社会でも、組織の論理が個人の権利より優先される場面は少なくありません。 例えば、家庭内で夫婦が互いに暴力を振るったとしても、その場で直ちに公権力が介入することは多くありません。しかし、もし同じことが裁判所の法廷で起これば、法廷秩序を乱す重大な行為として厳しく対処されます。この違いは、法廷が「法によって支配される空間」であり、家庭や職場は、ともすれば「人間関係や力関係によって支配される空間」になり得ることを示しています。だからこそ、社会には裁判所という第三者機関が必要なのです。

人間は一生、人間関係に悩み続ける

以前、私の母が高齢者施設へ入所することになった際のことです。入所が決まり、いよいよ翌日に入所という日に、母から電話がありました。 「心配事がある。」そう言うので、私は、「食事もあるし、お風呂もある。職員の方も親切だから大丈夫だよ。何が心配なの。」 と尋ねました。すると母は、静かにこう答えました。「人間関係をうまくやっていけるか、それが一番心配なんだよ。」 私はその言葉を聞き、人は学校へ入り集団生活を始めてから、社会へ出て、家庭を築き、老人ホームへ入るまで、人生の最後まで、人間関係という課題を背負って生きていく存在なのだと改めて実感しました。

法律よりも人間関係を優先してしまう

法律相談でも、全く同じことが起こります。法律上は十分に権利が認められる可能性があるにもかかわらず、 「相手との関係が悪くなる。」 「家族だから。」 「長年の付き合いだから。」 「会社に居づらくなる。」 そうした理由で権利の行使を断念する方が少なくありません。法律よりも、人間関係が優先されてしまうのです。私は、そのような場面に接するたびに、法律家として何とも言えない寂しさを覚えます。

「私が我慢すればいい」と考えた女性

忘れられない相談者がいます。夫の不貞行為が明らかになり、ご相談に来られた女性でした。私は、まず家庭裁判所へ夫婦関係調整調停を申し立てることをお勧めしました。調停は訴訟ではありません。裁判官と調停委員が間に入り、双方の話を聞きながら解決を目指す、話し合いを基本とした制度です。 ところが、その女性は、「私が我慢すれば、このまま暮らしていけますから。」とおっしゃって、申立てを断念されました。 それから約一年後、その方は再び事務所を訪れました。精神的に深く傷つき、心を病んでおられました。そして、私にこう言われました。 「先生、あのとき先生のおっしゃるとおり、調停を申し立てておけばよかったです。」この言葉は、今でも私の心に深く残っています。

我慢は、必ずしも解決ではない

調停は訴訟ではありません。 勝ち負けを争う場ではなく、第三者の助けを借りて冷静に話し合う制度です。 それにもかかわらず、多くの方が「裁判所」という言葉だけで身構えてしまいます。 そして、 「自分さえ我慢すれば。」 「もう少し耐えれば。」 そう思いながら年月を重ね、心身をすり減らしてしまう方を、私は数多く見てきました。 もちろん、忍耐や譲歩が美徳となる場面はあります。 しかし、それは双方が歩み寄る場合に初めて意味を持ちます。 一方だけが耐え続けることは、決して真の解決ではありません。

医療訴訟でも「どうせ勝てない」と思い込んでしまう

医療事故の相談でも、 「病院には勝てない。」 「医療訴訟は難しい。」 という言葉を耳にすることがあります。 確かに、医療訴訟全体の認容率は一般の民事事件より低い傾向があります。 しかし、それは統計にすぎません。 個々の事件について勝訴できる可能性まで否定するものではありません。 医療事件は、カルテ、画像所見、医学的知見など、個別の証拠によって結論が大きく左右されます。 実際、私が担当している医療訴訟や医療調停でも、和解を含め、何らかの解決に至ることが少なくありません。 統計に負ける必要はありません。 大切なのは、自分の事件を正しく検討することです。

法律は、人間関係を壊すためのものではない

法律は、人間関係を壊すために存在するものではありません。壊れてしまった人間関係や、力関係によって均衡を失った状況を、公平な立場から整え直すために存在しています。そのために裁判所があり、調停制度があり、弁護士制度があります。法は、弱い立場に置かれた人を守るためにあります。

おわりに

法治国家とは、力のある者が勝つ社会ではありません。法によって判断される社会です。その制度は、百年以上にわたり多くの先人の努力によって築き上げられてきました。にもかかわらず、「どうせ無理だ」「我慢した方がいい」と最初から権利を放棄してしまう方は少なくありません。私は、その姿を見るたびに本当に残念な気持ちになります。せっかく法律という武器があり、弁護士という支援者がいるのです。必要なときには、その武器を手に取っていただきたい。法は、そこに存在するだけでは人を守ってくれません。法は、使われて初めて、その本来の価値を発揮するのです。
2026.06.18

南沙織という衝撃 ― 私の青春とともにあった歌声

グループサウンズの時代に現れた新しい風

私が小学校高学年の頃は、ちょうどグループサウンズ全盛期だった。タイガースやテンプターズなどが若者たちの人気を集める一方で、大人の歌謡曲や演歌も健在であった。 そんな時代に、突然、新しい風を吹き込んだのが南沙織である。 南沙織のデビューは1971年。1954年生まれだから私より4歳年上である。デビュー曲は「17才」。その時、私は13歳の中学1年生だった。 当時は小柳ルミ子、天地真理と並んで「新三人娘」と呼ばれていた。しかし、私には南沙織だけが全く違う存在に見えた。小柳ルミ子の歌唱力とも、天地真理の親しみやすいアイドル性とも異なる、どこか都会的で洗練された雰囲気を持っていたのである。 爽やかで透明感のある歌声、長い黒髪、安定した歌唱力。そして、私生活をあまり表に出さないミステリアスな魅力。さらには楽曲の幅広さ。そのすべてが新鮮だった。 私の世代では、自分の娘に「沙織」と名付けた親が多かったという話も耳にする。それが事実かどうかは分からないが、それほどまでに彼女が時代に与えた影響は大きかったのである。

憧れの存在だった南沙織

その後、私が中学3年生になる頃、山口百恵、桜田淳子、森昌子の「中三トリオ」が登場する。 彼女たちは私と同じ学年であり、まさに同級生感覚のアイドルだった。しかし、不思議なことに、私はそれほど熱中しなかったように思う。 やはり私にとって南沙織は特別な存在だった。4歳年上という距離感が、少年だった私には憧れの対象としてちょうど良かったのかもしれない。 アイドルというより、少し背伸びをして見上げる存在であった。

筒美京平が生み出した名曲の数々

南沙織の魅力を語る上で、その楽曲群を外すことはできない。 「17才」 「潮風のメロディ」 「ともだち」 「純潔」 「哀愁のページ」 「早春の港」 「傷つく世代」 いずれも日本歌謡史に残る名曲である。 多くの作品を手掛けた筒美京平のメロディは、明るく親しみやすいだけではなく、どこか洗練された都会的な響きを持っていた。 今改めて聴いても古さを感じさせない。それは単に流行歌ではなく、優れたポップスとして完成されていたからだろう。

「哀愁のページ」の衝撃

中学2年生の頃に発表された「哀愁のページ」は特に印象深い。 それまでの健康的で快活なアイドル路線から一転し、大人びた世界観を感じさせる作品だった。 有馬三恵子の作詞、筒美京平の作曲という黄金コンビによる名曲である。 そして何より、冒頭の英語によるモノローグが印象的だった。 今では珍しくない演出かもしれないが、当時としては極めて斬新だった。曲が始まる前からドラマが始まっているような感覚があり、中学生だった私は強く惹きつけられた。 あの英語のモノローグを聴くだけで、真駒内上町5丁目のC団地から真駒内中学校に通っていた頃の空気が鮮やかによみがえる。

「早春の港」と生徒会室の思い出

そして、「早春の港」を聴くと、私の中学3年生の春がよみがえる。 私は新設校だった札幌市立真駒内曙中学校の初代生徒会長を務めていた。 春休みにも学校へ出て、生徒会の仕事をしていた。生徒会役員は5人ほどだったと思うが、三階にあった生徒会室で毎日のように集まり、学校のことを議論し、笑い合い、実に楽しい時間を過ごしていた。 担当の奈良公雄先生は、私たちから親しみを込めて「ナラセン」と呼ばれていた。奈良先生は、生徒会長としての振るまいや判断についていつも的確にアドバイスをしてくださった恩師である。 生徒会活動が終わると、ナラセンに真駒内本町のラーメン屋へ連れて行ってもらうこともあった。 「今日は食欲がないなあ」 と言いながら、お子様ラーメンを食べていたナラセンの姿まで、今でも鮮明に覚えている。 半世紀近く前の出来事である。 それでも、「早春の港」が流れると、生徒会室の窓から差し込む春の日差しや、仲間たちの笑い声まで思い出されるのである。

「春の予感」と青春の終章

1978年、「春の予感」が発表された。 その頃、南沙織は上智大学に在学中であり、私は北海道大学法学部へ進学していた。 彼女が学業に専念するために歌手活動から離れるというニュースは大きな驚きだった。 もちろん結婚や家庭も人生の大切な選択だが、当時の私には、人気絶頂の歌手が学業を重視するという決断が強く印象に残った。 アイドルでありながら、自らの人生を主体的に選択する。 そこにもまた、南沙織らしさがあったように思う。

名曲は人生そのものを保存している

南沙織の歌を聴くと、単に懐かしい歌手を思い出すのではない。 中学校の生徒会室の仲間たち。 ナラセンとのラーメン屋でのひととき。 北海道大学へ進学した頃の自分。 そして、希望に満ちていた青春の日々。 それらすべてが一緒によみがえる。 考えてみれば、名曲とは不思議なものである。 音楽だけを保存しているのではない。その曲を聴いていた頃の自分自身、その時代の風景、人との出会い、笑い声や匂いまでも、一緒に記憶の中に保存しているのである。 私にとって南沙織とは、一人のアイドル歌手ではない。 青春そのものを運んでくる歌声なのである。

あの頃の歌はなぜ心に残るのか

もっとも、これは南沙織だけの話ではないのかもしれない。 今の日本を見渡してみると、私の心をあれほど強く揺さぶる歌になかなか出会えない。もちろん、現在にも優れた音楽は数多く存在するのだろう。しかし、「17才」や「哀愁のページ」、「早春の港」のように、半世紀を経ても当時の風景や人々の顔までも鮮やかによみがえらせる歌には、なかなか巡り会えないのである。 なぜなのだろう。 人々の感受性が変わったからなのか。作り手の問題なのか。それとも、音楽そのものが消費される速度が速くなり、一曲を大切に聴き込む時代ではなくなったからなのか。 正直なところ、私にも分からない。 ただ一つ分かるのは、「17才」を聴けば中学1年生の自分が現れ、「哀愁のページ」を聴けば中学2年生の自分が現れ、「早春の港」を聴けば真駒内曙中学校の生徒会室にいた仲間たちの笑顔が浮かんでくるということである。 歌は思い出を運んでくる。 そして思い出は、歳を重ねるほどに貴重な財産になっていく。 そう考えると、南沙織の歌が特別だったのか、それとも青春そのものが特別だったのか、だんだん分からなくなってくる。 年は取りたくないものである。 しかし、年を取ったからこそ分かる歌の価値もあるのかもしれない。 南沙織の歌声は、今日も半世紀前の私を呼び戻してくれる。そして、そのたびに私は、あの頃の仲間たちや恩師たち、そして未来に希望を抱いていた少年時代の自分と再会するのである。
2026.06.06

ダイエット――結局は自己管理の問題です

 

学校祭で人生最大級の体重に

私は子どもの頃太った子どもだったようです。もっとも、当時の写真を見返してみると、小学校時代は極端な肥満というほどではありませんでした。中学校時代もその延長線上にありましたが、高校に入ってから体重が大きく増加しました。 札幌南高校在学中の体重は109キログラムでした。現在は73キログラム前後ですので、振り返るとかなりの変化です。 高校時代、最も太っていたのは学校祭の頃でした。 私は生徒会長を務めており、学校祭の準備のため連日夜遅くまで学校に残って山車の制作やステージの準備をしていました。夜になると仲間と一緒に「風月」の焼きそばを買いに行き、コカコーラを飲みながら食べます。帰宅すると今度は母が用意してくれた夕食が待っており、ペプシコーラを飲みながら再び食事をするという生活でした。 今から考えれば、体重が増えないはずがありません。 その後も肥満状態は長く続き、司法試験に合格する20代後半まで体重オーバーの状態でした。一般的なサイズの衣類は着ることができず、東急百貨店のキングサイズコーナーで服を購入していたことを覚えています。

結婚を機に大きく減量

転機となったのは結婚でした。 妻の食生活指導のおかげで体重は大幅に減少しました。司法試験合格当時には90キログラム台だった体重が、修習中に結婚して、80キログラム前後まで落ちました。 司法修習中には、後期修習までに体重が10キログラムも落ちたため、「何か大病を患ったのではないか」という噂まで流れたほどでした。 もちろん病気ではなく、健康的な生活習慣の結果です。

ジョギングとの出会い

弁護士になってからは、折角落ちた体重が再び増え始めました。 駆け出しの頃、仕事上のストレスから背中の痛みが出るようになり、その対策としてジョギングを始めました。すると体重は面白いように減少し、一時は70キログラム程度まで落ちました。 しかし、北海道の冬場のジョギングは路面凍結などの危険があります。そこで運動をテニスに切り替えました。 テニスも週に1〜2回は欠かさず続けていましたが、ジョギングほどの効果はなく、体重は再び80キログラム後半になりました。 この経験から、私にとって最も効果的な減量方法はジョギングであると実感しましたが、ジョギングを習慣づけるのはなかなか難しかったのです。

外見ではなく、内臓のために体重を減らす

様々な医療問題に取り組む中で、昨年、私の考え方を大きく変えたものがあります。 それは「内臓への負担」という視点です。 例えば腎臓です。体重が5キログラム減るだけでも、腎臓への負担は相当に軽減されると言われています。

受け売りですが・・・・・ 腎臓は、体内の老廃物をろ過し、水分や電解質のバランスを調整する重要な臓器です。しかも24時間休むことなく働き続けています。

肥満になると、身体全体により多くの血液を送り出す必要が生じます。その結果、腎臓は通常以上の仕事を強いられます。腎臓の糸球体では「過剰ろ過(ハイパーフィルトレーション)」と呼ばれる状態が起こり、長期間続くと腎機能低下の原因になることが知られています。さらに肥満は、高血圧や糖尿病の発症リスクを高め、それらを通じても腎臓に大きな負担を与えます。そのため、体重を減らすことは単に見た目を改善するためではありません。体重減少によって血圧や血糖の改善が期待できるだけでなく、腎臓にかかる過剰な負荷そのものを軽減する効果も期待されています。近年の腎臓病学の研究でも、肥満は慢性腎臓病の発症・進行に関与する重要な因子であり、減量は腎保護につながる可能性が高いと考えられています。・・・・

私は「体重が5キログラム減るだけでも、腎臓や肝臓等の臓器はかなり楽になる」と考えるようになりました。

そのことを知ってから、私は体重管理を単なる見た目の問題として考えなくなりました。 若い頃は、痩せることは外見を良くするためだと思っていました。しかし、年齢を重ねるにつれ、自分の身体の中で黙々と働いてくれている内臓のことを考えるようになりました。 腎臓も肝臓も心臓も、文句ひとつ言わず24時間働き続けています。その負担を少しでも軽くしてあげることが、自分自身の責任ではないかと思うようになったのです。 そう考えると、「今日は少しくらい食べ過ぎても大丈夫だろう」という気持ちも変わってきます。 むしろ、「今まで本当に自分の内臓に悪いことをしてきたな」という反省の気持ちが強くなりました。

身体は一生使う大切な道具

私が意識するようになったのは、自分の頭と身体を分けて考えることです。 つまり、自分自身の身体を、自分が使っている大切な道具として考えるのです。 仕事で使うパソコンやスマートフォンは大切に扱います。自動車であれば定期的に点検し、整備します。故障すれば困るからです。 身体も同じではないでしょうか。 私たちは仕事をし、趣味を楽しみ、家族と過ごし、人生を送るために身体を使っています。その身体が故障してしまえば、どれほど能力や意欲があっても思うように活動することはできません。 であれば、自分の身体という道具も、できるだけ長持ちさせたいと思うのが自然です。 ダイエットや節制は、我慢のための我慢ではありません。 自分の身体を長く大切に使うための整備であり、メンテナンスなのです。

私が実践したシンプルな方法

食生活の改善といっても、私は難しいことはしていません。 難しいことは長続きしないと思ったからです。 そこでルールをシンプルにしました。 まず、お菓子とアルコールを買って自宅に持ち帰ることをやめました。 職場でいただいたお菓子は一つだけ食べ、残りは事務所の皆で分けます。また、平日の飲酒をやめました。 次に、麺類を食べたらご飯は食べないことにしました。 さらに、小腹が空いた時のお菓子をバナナに変えました。 バナナは満足感があり、私には非常に効果的でした。

節制とは意志力ではなく環境づくり

ダイエットについて考えていると、「意志が弱いから失敗する」と考えがちです。 しかし、私自身の経験では少し違います。 本当に大切なのは、自分の意思と戦うことではなく、自分が誘惑に負けにくい環境を作ることです。 風呂上がりには冷えたビールや白ワインを飲みたくなります。美味しい食事を前にすればなおさらです。 しかし、そのために着替えてコンビニまで行かなければならない状況であれば、多くの場合は面倒になって諦めます。職場を出て、コンビニ行って、お菓子を買ってくるのも面倒なはずです。 つまり、自宅や職場にお菓子やアルコールを置かないことが重要なのです。 ビールの代わりには炭酸水が役立ちました。飲み応えがあります。 また、そば茶もおすすめです。カフェインが含まれていないため、夜でも安心して飲むことができます。

半年で6リットル以上の減量

こうした取り組みを続けた結果、半年で体重は大きく減少しました。 感覚的に言えば、2リットルのペットボトル3本以上の重さが身体からなくなった計算になります。 特別なサプリメントも、高額なダイエット商品も使っていません。 日常の小さな習慣を変えただけです。

自己管理は弁護士にとって永遠の課題

ダイエットや節制について書いてきましたが、結局のところ、これらは自己管理の一部に過ぎません。 私自身、弁護士として仕事をする中で、自己管理は永遠の課題だと感じています。 依頼者の皆様の大切な問題を解決するためには、一つひとつの案件に丁寧に向き合いながら、多くの仕事を並行して進めていかなければなりません。 限られた時間の中で、どの仕事を優先し、どのように進めるのか。どうすればトラブルなく質の高い仕事を提供できるのか。 今もなお、より良い方法を見つけるために悪戦苦闘の毎日です。 そう考えると、体重管理も仕事の管理も本質はよく似ています。 一時的な努力ではなく、無理なく続けられる仕組みを作ること。 感情や欲求に流されるのではなく、長期的な視点で判断すること。 そして、自分自身を適切にコントロールすること。 ダイエットや節制は脳のコントロールの問題だと書きましたが、それは仕事についても同じです。 健康な身体があってこそ良い仕事ができます。そして良い仕事を長く続けるためには、身体も頭も適切に管理しなければなりません。 これからも、自分の身体という大切な道具をいたわりながら、依頼者の皆様のお役に立てるよう努力を続けていきたいと思います。 そして最近、仕事や勉強において改めてその重要性を実感しているのが「予習と復習」です。 学生時代には当たり前のように言われていたことですが、弁護士として長年仕事を続けてきた今になって、その意味を改めて考えるようになりました。 次回は、「予習復習の大切さ」をテーマにお話ししたいと思います。
2026.05.24

裁判のIT化が変える「司法の地理」・・・一月一言

――北海道から見える、日本社会と司法の未来

先日、久しぶりに東京へ一泊の出張に行ってきました。 東京駅周辺は、平日にもかかわらず驚くほどの人の多さです。電車は満員に近く、飲食店には仕事帰りのサラリーマンたちが溢れ、大きな声で談笑している。地方都市とは異なる、独特の熱気と喧騒があります。

増え続ける外国人と、東京の「NY化」

その中で、特に印象的だったのは「外国人の多さ」です。 丸の内を歩いていると、オフィス街の中に、ごく自然に多くの外国人が溶け込んでいる。観光客というより、そこで働き、生活している人たちです。札幌で目にする外国人の数や雰囲気とは、明らかに次元が違います。 思い返せば、まだ日本に今ほど外国人が多くなかった時代、海外視察でローマやロンドンを歩いた際にも、似たような感覚を覚えました。 ロンドンには、典型的な「英国紳士」ばかりがいるわけではありません。目の色も肌の色も多種多様で、まさに「人種のるつぼ」という印象でした。 ニューヨークのような多様性です。 そして、10数年を経て、同じ現象が東京にも起きているのだと感じました。東京は今、急速に「NY化」しているのかもしれません。

日本特有の「東京一極集中」

もっとも、日本は依然として強い中央集権国家です。 大学も、大企業も、情報も、人材も、結局は東京に集まる。地方で育った若者たちは東京へ向かい、親は仕送りを続ける。その総額だけでも、莫大なものになるでしょう。 一方、ドイツを旅した際には、まったく異なる都市設計を感じました。 ベルリンは確かに首都ですが、日本の東京のような圧倒的一極集中ではありません。ミュンヘン、ハンブルク、フランクフルトなど、それぞれの地方都市が独自の魅力と経済圏を持っている。国家として、「集中しすぎない」構造が意識されているように思えます。

北海道からだからこそ見えるもの

東京にずっといると、日本全体が東京の延長線上にあるように感じるのかもしれません。 しかし、北海道から東京を見ると、別の現実が見えてきます。 人口減少、人手不足、事業承継、交通インフラ、医療や介護の問題――。地方では、東京とは異なる課題が日々進行しています。 法律実務でも同様です。 東京では当然とされる制度や商慣習が、地方ではそのまま機能しないこともあります。地方には地方の産業構造があり、人口動態があり、距離の問題があります。 だからこそ、北海道のような地方からの視点は重要なのだと思います。

裁判のIT化が変える「司法の地理」

そして今、その「東京一極集中」は、司法の世界でもさらに進もうとしています。 裁判のIT化です。 かつては、裁判をするためには、人間が裁判所へ行かなければなりませんでした。弁護士も、裁判官も、書記官も、当事者も、同じ場所に集まる必要があった。 しかし現在は、ウェブ会議による期日が増え、書面提出も電子化され、物理的に裁判所へ行く必要は急速になくなっています。 実際、最近の札幌地方裁判所の中は、以前とはかなり雰囲気が変わってきました。 かつては、廊下で知り合いの弁護士に会い、雑談を交わし、相手方代理人と顔を合わせ、書記官と少し話をする――そんな日常がありました。 しかし今は、人が少ない。 裁判所の中で弁護士に出会うこと自体が減っています。建物の中が、どこか「がらん」としている。空洞化は、すでに始まっているのだと思います。

「人間が存在しない裁判」の不気味さ

もちろん、IT化によって効率は上がります。 移動時間は減り、遠方の依頼者の負担も軽くなる。便利になった部分は間違いなくあります。 しかしその一方で、裁判手続から「人間の気配」が消えつつあることに、強い違和感を覚えます。 人間が、人間に直接触れ合うことなく、裁判が進んでいく。 相手方の表情を見ることもない。裁判官の空気感を感じることもない。廊下で偶然会って和解の糸口が生まれることもない。 画面越しに、データだけが流れていく。 それは、生理的に受け付けない感覚です。 裁判とは、本来、人間同士の紛争を、人間が解決する営みだったはずです。 怒りも、悲しみも、後悔も、事情も、沈黙もある。その空気を共有するからこそ、和解や妥協や情状というものが存在してきた。 しかし、効率化されたデジタル空間では、そうした「人間的な揺らぎ」が削ぎ落とされていきます。 情けも何もない世界です。

AIが裁く社会は来るのか

行き帰りの飛行機では、ハリウッド映画『Mercy』を観ました。 作品の中では、刑事事件をAIが90分で審理します。 そして、有罪確率が92%を超えれば即処刑。 被告人には弁護人も付かず、自らAIを使って証拠を探し、自分で無罪を立証しなければならない。失敗すれば死刑です。 極端な設定ではあります。 しかし、現在進んでいるAI技術や司法のデジタル化を見ていると、単なるSFとして笑えない部分もあります。 AIは、膨大な判例や証拠を瞬時に分析できます。感情にも左右されない。効率性だけを見れば、人間より優れている場面もあるでしょう。 ですが、裁判とは、本当に「確率」で決めてよいものなのでしょうか。 人間の人生、背景、後悔、沈黙、空気――。そうした数値化できないものを、司法はこれまで扱ってきたはずです。 東京の通勤ラッシュを歩いていると、ときどきSF映画の中に入り込んだような感覚になります。 誰も無口で、整然と、ロボットのように歩いていく。 巨大なシステムの中を、人間が流れていく。 そして、その延長線上には、人間が裁判所へ行かなくなる世界、人間同士が接触しない司法、AIが判断を下す社会が待っているのかもしれません。 便利さと効率化の先で、私たちは「人間による司法」をどこまで残せるのか。 北海道から東京を見ていると、そんなことを考えさせられます。
2026.05.11

黙る者が負けるというルール・・・一月一言

「批判してはならない社会」が生む停滞

最近、「批判すること自体が悪い」という空気が、日本社会の中で強くなっているように感じる。 もちろん、感情的な中傷や人格攻撃は慎むべきである。しかし本来の「批判」とは、物事を検討し、問題点を指摘し、改善の可能性を探る行為のはずだ。それにもかかわらず、異議を述べることそのものが敬遠される風潮が広がっている。 日本人は幼い頃から、「空気を読むこと」「波風を立てないこと」を重視する文化の中で育つ。自分の意見を貫くより、周囲との調和を保つことが、上手に生きる知恵として教えられてきた。 「出る杭は打たれる」という言葉は、その象徴である。 この文化には、無用な対立を避け、共同体を安定させるという長所もある。しかしその一方で、既存の価値観を疑う視点や、独創的な発想は生まれにくくなる。 そのため、日本では、ブレイクスルーを起こすような突出した人物や、独自の発想を持つ起業家が育ちにくいと言われることもある。

「異議を述べる文化」である訴訟

ところが、法律の世界は、この日本的感覚とはまったく異なる。 訴訟とは、本質的に「異議申し立て」の制度である。相手方の主張に対し、「それは違う」と論理的に反論することによって成り立っている。 西洋近代法の根底には、対立する意見をぶつけ合い、その中から妥当な結論を導くという思想がある。 したがって、訴訟の場で沈黙は美徳ではない。 たとえば、相手方の主張に反論しなければ、「争わない」とみなされる場合がある。いわゆる黙示の承諾である。 しかし、日本社会では「争わないこと」が良識とされやすいため、この感覚を理解していない人が少なくない。 その結果、本来なら争えたはずの権利を、自ら放棄してしまう人もいる。

書面を見るだけで傷ついてしまう人々

実際、訴訟になると、相手方から届く書面そのものに大きなストレスを感じる依頼者は多い。 「こんなことを書かれた」 「人格を否定された」 「攻撃された」 そう感じて深く傷ついてしまう。 しかし、訴訟とは、そもそも原告と被告で物事の見え方が異なるから起こるものである。意見が対立するのは制度上当然に予定されている。 むしろ、反論が存在すること自体は異常ではない。 しかし、日本社会では「対立」そのものへの耐性が弱いため、法的紛争に直面しただけで精神的に消耗してしまう人が多い。 そこで最も楽なのは、黙ることである。 しかし、黙っていれば問題が消えるわけではない。

黙る者が負ける社会

弱肉強食の社会では、沈黙する側が一方的に不利益を受けやすい。 家庭内で立場の弱い配偶者、会社で発言力を持たない従業員、社会的影響力を持たない個人――。 そうした人々にとって、本来、法律は「最後の防御手段」である。 法の下では、強者も弱者も平等である。 だからこそ、弱者にとって法律は極めて重要な武器になる。 しかし現実には、その武器を使おうとしない人が多い。 法律を知らない。 弁護士に相談しない。 争うこと自体を避けてしまう。 結果として、「声を上げない者」が不利益を受け続ける構造が温存される。

なぜ弁護士を増やしたのか

近年、日本では司法制度改革によって司法試験合格者数が大幅に増やされた。 その背景について、「事前規制を減らし、自由競争社会へ移行する以上、被害を受けた人が自ら権利を守れる仕組みを整える必要があった」という指摘がある。 つまり、国家が細かく規制して守る社会から、「被害を受けたら法によって救済を求める社会」へ変わろうとしたのである。 これは、ある意味で「自己責任社会」の進行でもある。 だからこそ、法律へのアクセスを広げ、弁護士を増やす必要があった。 しかし、多くの人はまだ、その変化に気づいていない。 競争社会を受け入れながら、同時に「争うこと」を忌避する。この矛盾が、日本社会の停滞感を生んでいるのかもしれない。

批判とは破壊ではない

本来、批判とは破壊ではない。 それは、現状を問い直し、問題点を明らかにし、より良い方向へ進むための行為である。 もちろん、感情的な攻撃や誹謗中傷は慎むべきだ。しかし、「異議を述べること」まで否定してしまえば、社会は変化を失う。 黙っていることが美徳とされる社会では、強い者の論理だけが通りやすくなる。 だからこそ今、日本社会に必要なのは、「争わないこと」ではなく、「冷静に異議を述べる力」なのではないだろうか。 相談者の中には、訴訟を提起することや話し合いを基調とする調停を申し立てることに躊躇して辞めてしまう方も多い。本当に残念なことだ。
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