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2026.02.11

一月一言・・・「討論ができない日本社会」選挙期間が終わって

討論ができない社会

1 選挙が映し出したもの

衆議院選挙が終わった。今回の選挙を通じて強く感じたのは、私たちの社会が「討論」を極めて苦手としているという現実である。

意見の対立が生じたとき、冷静な議論に進む前に感情が前面に出てしまう。相手を攻撃する、反論をかわす、あるいは最初から議論の場を避ける。「話し合い」という言葉は用いられるが、その多くは感情論の応酬にとどまり、討論とは呼び難い。

2 裁判という討論の場

裁判手続は、そうした社会の姿とは対照的である。裁判は、討論を制度として組み込んだ手続であり、主張と反論、再反論を積み重ねることで進行する。

その過程で、依頼者自身が「この事件は勝てる」「これは厳しい」という現実的な見通しを持つようになることも少なくない。感情としては納得できない結論であっても、法律と証拠に照らせば有利か不利かは明らかになる。裁判は、感情ではなく、法に基づいて冷静に現実を直視する場である。

3 感情に流される主張への違和感

本来、裁判では感情に任せた主張は通用しない。何を根拠に、どの事実を、どのような法律構成で主張するのかが厳しく問われる。

それでも近年、感情的な主張が前面に出る場面が増えている。法的整理よりも感情的な訴えが強調され、議論がかみ合わない。弁護士として、そのような状況に閉口することも少なくない。

4 アンケート調査だけが踊る社会

社会全体に目を向けると、同じ構図が見えてくる。報道では連日のように世論調査の結果が伝えられるが、それによって社会が置かれている客観的な状況が正確に理解できているかというと疑問が残る。

数字の上下が強調される一方で、その背景や長期的な影響についての冷静な分析は乏しい。目の前の反応や感情が増幅され、議論の前提となる事実や構造が置き去りにされている。

5 熱狂の先に何が残るのか

人々が熱狂したものの先に、何が残るのかという視点は、しばしば忘れられる。国鉄民営化、郵政民営化、そして現在進められている裁判所のIT化も、その例であろう。

当時は「改革」として喝采を浴びたこれらの施策が、結果として何をもたらしたのか。本当に社会全体にとって望ましい成果が得られたのか。その評価は、感情や雰囲気ではなく、時間をかけた検証によって初めて可能になる。

6 一歩先の社会を読むということ

目の前の便利さや分かりやすいスローガンに流されるのではなく、「その先に何があるのか」「将来の社会にどのような影響を及ぼすのか」と、もう一歩先を読む姿勢があれば、議論のあり方も変わってくるはずである。

討論を通じて最善の方法を探るという営みは、人類が長い時間をかけて培ってきた知恵である。しかし、その知恵が軽視され、感情に流されるまま集団で同じ方向へ進み、やがて行き詰まる。その結果、かつて通った道を再び歩むことになる。

7 歴史に学ぶしかない

結局のところ、熱狂の是非を判断するためには、歴史を学び、結果を冷静に振り返るしかない。何が語られ、何が実行され、そして何が残ったのか。その積み重ねの中にしか、答えは存在しない。

裁判が示しているのは、対立を避けることではなく、言葉と論理で向き合い、検証し続けることの重要性である。討論を重ねることでしか見えてこない現実がある。その視点を社会全体で共有できるかどうかが、これからの行方を左右するのではないだろうか。