真駒内の原風景
川の名を持つまち
澄川と石山の間に広がり、豊平川をはさんで藻岩の山並みに向かい合う真駒内。この地名は、静かに流れる真駒内川から名づけられたという。
いまでは大きな住宅地として知られているが、その歴史をたどると、牧場の時代、進駐軍の時代、そしてオリンピックの時代と、幾度も姿を変えてきた場所である。
けれども、私にとっての真駒内は、そうした歴史の年表ではなく、子どもの頃に見ていた風景そのものだ。
記憶のはじまり
もともとは北16条東7丁目あたりに住んでいたらしいが、その記憶はほとんどない。北海道大学のポプラ並木で撮った写真が残っているだけで、そこにいたはずの自分の記憶は不思議なほど空白だ。
はっきりと覚えているのは、真駒内に移ってからのことだ。
C団地という世界
団地はA、B、Cと順に造成され、私が住んでいたのはC団地だった。C団地は桜山の麓にあり、自然がすぐそばにあった。夏になると、たくさんのちょうちょやトンボが舞い、クワガタも飛んできた。草むらではキリギリスが鳴き、広場に行けばトノサマバッタが力強く跳ねていた。
C16の二階建ての長屋に、いくつもの家族が並んで暮らしていた。長尾さん、宮岡さん、林さん、森木さん――いまでも名前だけは鮮明に残っている。
全部で18棟、100世帯ほど。子どもたちが本当に多く、町全体に活気があった。
横につながる暮らし
二階建ての長屋で横に繋がっている暮らしは、どこか炭鉱住宅のような連帯感があった。壁一枚隔てた向こうに別の家族の気配があり、外に出ればすぐに誰かと顔を合わせる。
高層アパートのように上下に積み重なるのとは違い、横に広がる生活のつながりがあった。
家のつくりも素朴だった。一階に台所と居間があり、二階が寝床。風呂はなく、電話もない。それでも不便だと感じたことはあまりなかった。人の気配や声がすぐ近くにあることが、当たり前だったからだ。
学びと日常
幼稚園は真駒内幼稚園、小学校は真駒内小学校、中学校は真駒内中学校、そして真駒内曙中学校へと進み、高校は南校へ通った。幼稚園から高校二年生まで、実に12年以上をこの地で過ごしたことになる。
夏の夜には花火をし、街灯に集まるクワガタを追いかける。休みの日には「さとる君、あそぼう」と声がかかり、グラウンドで草野球をする。暗くなるまで遊ぶのが当たり前だった。
芝生の中の異国
自転車で走り回っていたのは、進駐軍が使っていた住宅跡。後に警察の宿舎となった場所だ。あたり一面が芝生で、石板の道が続いていた。ナナカマドやオンコの木が並び、まるでテレビで見たアメリカの住宅地のようだった。
その風景の中で過ごした時間が、いまでも鮮やかに残っている。
「端」に住む感覚
当時の真駒内は、いまよりもずっと「端」にある場所だった。市内に出るには、定山渓鉄道のマコナイ駅近くか、上町の商店街まで行ってバスに乗るしかない。真駒内の南の果てに住んでいる、そんな感覚があった。
高校のとき、今度は札幌の西の端である手稲へ移ることになる。そして、司法試験に合格するまで、そこに住み続けた。
振り返れば、私はいつも「端」に住んでいたのかもしれない。
変わるまち、残る記憶
オリンピックの開催が決まり、まちは一気に変わっていった。施設が建ち、団地が整備され、「五輪のまち」としての姿が形づくられていく。
けれども、私の中に残っている真駒内は、その前の、芝生が広がり、虫の音と子どもたちの声、そして人の気配が近くにあった住宅地の姿だ。
緑の中でよみがえるもの
いまは札幌の中心部に住んでいるが、大通公園の木々の間を歩いていると、ふと真駒内に住んでいた頃を思い出すことがある。
あのとき見ていた緑や風の感じが、どこかでつながっているのかもしれない。
まちは変わっていくものだが、原風景は変わらない。
それが、このまちが持つ、もう一つの姿なのだと思う。

