ドイツ語クラスがつないだ縁
北海道大学の教養部時代、クラス編成は第2外国語によって決まっていた。私が選んだのはドイツ語。担任は岡崎先生という、ドイツ語をこよなく愛する熱血教官だった。
その情熱に打たれ、私は先生のゼミを履修した。ゼミではワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を輪読した記憶がある。決して平易な内容ではなかったが、言葉と思想に向き合う濃密な時間だった。
その後も岡崎先生とは年賀状のやり取りが続いた。広島大学へ転勤された後、大作『ニーベルンゲンの歌』を完成され、それを寄贈していただいたこともある。学生への思いと学問への情熱の深さを感じる出来事だった。
また、クラスから2人もドイツ語研究者の道に進み、大学教官となったのだから、今振り返ると非常に恵まれた環境にいたのだと思う。
そんなクラスで出会った仲間たち——板東君、野村君、寺田君、そして長崎県島原出身の木村君とともに、忘れがたい旅に出ることになる。
学生時代の無謀で贅沢な旅
目的地は、木村君の実家がある長崎県島原。北海道から九州までという長距離の旅だが、当時の私たちには時間だけはたっぷりあった。
お金はないが時間はある——そんな学生らしい発想で、フェリーを活用した節約旅行が始まった。
フェリーで始まる試練の一日
まずはJRで小樽へ向かい、夜、新日本海フェリーに乗船。翌日は丸一日、船の上で過ごすことになる。
しかしこの一日は過酷だった。波が荒く、ほとんど船酔い状態で、一歩も動けない。ただ横になって耐えるしかなく、苦しい時間が延々と続いた。
京都での回復と自由な散策
3日目の朝、舞鶴に到着。ようやく船酔いから解放され、生き返ったような気分だった。その後、列車で京都へ移動し、「京都タワーホテル」に宿泊した。
京都市内は木村君が案内してくれた。なぜあれほど詳しかったのかは思い出せないが、三十三間堂や清水寺などの名所を効率よく巡ることができた。修学旅行とは違い、自分たちのペースで歩く京都は、どこか新鮮だった。
瀬戸内海の穏やかな船旅
4日目の夜には神戸へ移動し、そこからフェリーで門司へ。今度は瀬戸内海航路である。
前回とは打って変わって波は穏やかで、非常に快適な船旅だった。同じフェリーでもここまで違うのかと実感した夜だった。
太宰府と九州の暖かさ
5日目、九州に上陸。福岡は通過し、太宰府天満宮へ向かった。当時、さだまさしが学生の間で大人気で、「飛梅」の情景を思い浮かべながら参拝し、梅ヶ枝餅を味わった。
さらに、木村君の案内で、お兄さんが勉強していた九州大学にも立ち寄った記憶がある。春休みの時期だったが、九州は北海道とは比べものにならないほど暖かく、その気候の違いも印象に残っている。
その後、西鉄で熊本へ移動し、連絡船で島原へ。ここまでで片道約1週間という、ゆったりとした旅程だった。
島原での温かな時間
木村君の実家に到着すると、家族の会話はほとんど島原弁で、正直なところ理解は難しかった。それでも、温かく迎えてくれていることは十分に伝わってきた。
島原を拠点に、島原鉄道で長崎市へも足を延ばした。
長崎の風景と味の記憶
長崎では木村君の親戚の方も同行してくれ、街を案内してもらった。赤レンガの教会、稲佐山、眼鏡橋、原爆記念公園——どれも印象深い場所ばかりだった。
そして、長崎ちゃんぽんや皿うどん。土地の味もまた、この旅の大切な記憶の一部である。
帰路というもう一つの旅
数日後、木村君を島原に残し、4人で帰路についた。熊本へ渡り、バスで阿蘇を横断し、別府温泉で一泊。その後フェリーで大阪へ向かう。
大阪からは国鉄の「北国」に乗車し、夜出発して青森まで向かう。木の椅子席で一日かけて移動するのは非常に厳しいものだった。
さらに青函連絡船で函館へ渡り、そこから列車で札幌へ戻る。長く、そして身体にこたえる帰路だった。
不便さの中にあった豊かさ
振り返れば、決して楽な旅ではなかった。船酔いに苦しみ、長時間の移動に疲れ、贅沢な食事もなかった。
それでも、あの旅は確かに楽しかった。
時間に追われることなく、日本を縦断し、京都や長崎、島原をじっくり味わうことができたのは、学生時代ならではの贅沢だったと思う。
もう戻れない旅のかたち
あれから約50年。今は多少の余裕はあっても、あのように時間を贅沢に使うことは難しく、不便さを受け入れることもできないだろう。
新日本海フェリーでの激しい船酔い、瀬戸内海の穏やかさ、そして大阪からの厳しい列車の旅——それらは今も強く記憶に残っている。
あんな旅は、もう実現できないだろう。
あの頃の仲間たちへ
一緒に旅をした仲間たちとは、大学卒業後ほとんど会っていない。
それでも、あの時間を共有した記憶だけは消えない。ふとしたときに思い出しながら、みんなどうしているのだろうかと静かに考えることがある。

