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2026.05.11

黙る者が負けるというルール・・・一月一言

「批判してはならない社会」が生む停滞

最近、「批判すること自体が悪い」という空気が、日本社会の中で強くなっているように感じる。 もちろん、感情的な中傷や人格攻撃は慎むべきである。しかし本来の「批判」とは、物事を検討し、問題点を指摘し、改善の可能性を探る行為のはずだ。それにもかかわらず、異議を述べることそのものが敬遠される風潮が広がっている。 日本人は幼い頃から、「空気を読むこと」「波風を立てないこと」を重視する文化の中で育つ。自分の意見を貫くより、周囲との調和を保つことが、上手に生きる知恵として教えられてきた。 「出る杭は打たれる」という言葉は、その象徴である。 この文化には、無用な対立を避け、共同体を安定させるという長所もある。しかしその一方で、既存の価値観を疑う視点や、独創的な発想は生まれにくくなる。 そのため、日本では、ブレイクスルーを起こすような突出した人物や、独自の発想を持つ起業家が育ちにくいと言われることもある。

「異議を述べる文化」である訴訟

ところが、法律の世界は、この日本的感覚とはまったく異なる。 訴訟とは、本質的に「異議申し立て」の制度である。相手方の主張に対し、「それは違う」と論理的に反論することによって成り立っている。 西洋近代法の根底には、対立する意見をぶつけ合い、その中から妥当な結論を導くという思想がある。 したがって、訴訟の場で沈黙は美徳ではない。 たとえば、相手方の主張に反論しなければ、「争わない」とみなされる場合がある。いわゆる黙示の承諾である。 しかし、日本社会では「争わないこと」が良識とされやすいため、この感覚を理解していない人が少なくない。 その結果、本来なら争えたはずの権利を、自ら放棄してしまう人もいる。

書面を見るだけで傷ついてしまう人々

実際、訴訟になると、相手方から届く書面そのものに大きなストレスを感じる依頼者は多い。 「こんなことを書かれた」 「人格を否定された」 「攻撃された」 そう感じて深く傷ついてしまう。 しかし、訴訟とは、そもそも原告と被告で物事の見え方が異なるから起こるものである。意見が対立するのは制度上当然に予定されている。 むしろ、反論が存在すること自体は異常ではない。 しかし、日本社会では「対立」そのものへの耐性が弱いため、法的紛争に直面しただけで精神的に消耗してしまう人が多い。 そこで最も楽なのは、黙ることである。 しかし、黙っていれば問題が消えるわけではない。

黙る者が負ける社会

弱肉強食の社会では、沈黙する側が一方的に不利益を受けやすい。 家庭内で立場の弱い配偶者、会社で発言力を持たない従業員、社会的影響力を持たない個人――。 そうした人々にとって、本来、法律は「最後の防御手段」である。 法の下では、強者も弱者も平等である。 だからこそ、弱者にとって法律は極めて重要な武器になる。 しかし現実には、その武器を使おうとしない人が多い。 法律を知らない。 弁護士に相談しない。 争うこと自体を避けてしまう。 結果として、「声を上げない者」が不利益を受け続ける構造が温存される。

なぜ弁護士を増やしたのか

近年、日本では司法制度改革によって司法試験合格者数が大幅に増やされた。 その背景について、「事前規制を減らし、自由競争社会へ移行する以上、被害を受けた人が自ら権利を守れる仕組みを整える必要があった」という指摘がある。 つまり、国家が細かく規制して守る社会から、「被害を受けたら法によって救済を求める社会」へ変わろうとしたのである。 これは、ある意味で「自己責任社会」の進行でもある。 だからこそ、法律へのアクセスを広げ、弁護士を増やす必要があった。 しかし、多くの人はまだ、その変化に気づいていない。 競争社会を受け入れながら、同時に「争うこと」を忌避する。この矛盾が、日本社会の停滞感を生んでいるのかもしれない。

批判とは破壊ではない

本来、批判とは破壊ではない。 それは、現状を問い直し、問題点を明らかにし、より良い方向へ進むための行為である。 もちろん、感情的な攻撃や誹謗中傷は慎むべきだ。しかし、「異議を述べること」まで否定してしまえば、社会は変化を失う。 黙っていることが美徳とされる社会では、強い者の論理だけが通りやすくなる。 だからこそ今、日本社会に必要なのは、「争わないこと」ではなく、「冷静に異議を述べる力」なのではないだろうか。 相談者の中には、訴訟を提起することや話し合いを基調とする調停を申し立てることに躊躇して辞めてしまう方も多い。本当に残念なことだ。