コラム

2026.05.24

裁判のIT化が変える「司法の地理」・・・一月一言

――北海道から見える、日本社会と司法の未来

先日、久しぶりに東京へ一泊の出張に行ってきました。 東京駅周辺は、平日にもかかわらず驚くほどの人の多さです。電車は満員に近く、飲食店には仕事帰りのサラリーマンたちが溢れ、大きな声で談笑している。地方都市とは異なる、独特の熱気と喧騒があります。

増え続ける外国人と、東京の「NY化」

その中で、特に印象的だったのは「外国人の多さ」です。 丸の内を歩いていると、オフィス街の中に、ごく自然に多くの外国人が溶け込んでいる。観光客というより、そこで働き、生活している人たちです。札幌で目にする外国人の数や雰囲気とは、明らかに次元が違います。 思い返せば、まだ日本に今ほど外国人が多くなかった時代、海外視察でローマやロンドンを歩いた際にも、似たような感覚を覚えました。 ロンドンには、典型的な「英国紳士」ばかりがいるわけではありません。目の色も肌の色も多種多様で、まさに「人種のるつぼ」という印象でした。 ニューヨークのような多様性です。 そして、10数年を経て、同じ現象が東京にも起きているのだと感じました。東京は今、急速に「NY化」しているのかもしれません。

日本特有の「東京一極集中」

もっとも、日本は依然として強い中央集権国家です。 大学も、大企業も、情報も、人材も、結局は東京に集まる。地方で育った若者たちは東京へ向かい、親は仕送りを続ける。その総額だけでも、莫大なものになるでしょう。 一方、ドイツを旅した際には、まったく異なる都市設計を感じました。 ベルリンは確かに首都ですが、日本の東京のような圧倒的一極集中ではありません。ミュンヘン、ハンブルク、フランクフルトなど、それぞれの地方都市が独自の魅力と経済圏を持っている。国家として、「集中しすぎない」構造が意識されているように思えます。

北海道からだからこそ見えるもの

東京にずっといると、日本全体が東京の延長線上にあるように感じるのかもしれません。 しかし、北海道から東京を見ると、別の現実が見えてきます。 人口減少、人手不足、事業承継、交通インフラ、医療や介護の問題――。地方では、東京とは異なる課題が日々進行しています。 法律実務でも同様です。 東京では当然とされる制度や商慣習が、地方ではそのまま機能しないこともあります。地方には地方の産業構造があり、人口動態があり、距離の問題があります。 だからこそ、北海道のような地方からの視点は重要なのだと思います。

裁判のIT化が変える「司法の地理」

そして今、その「東京一極集中」は、司法の世界でもさらに進もうとしています。 裁判のIT化です。 かつては、裁判をするためには、人間が裁判所へ行かなければなりませんでした。弁護士も、裁判官も、書記官も、当事者も、同じ場所に集まる必要があった。 しかし現在は、ウェブ会議による期日が増え、書面提出も電子化され、物理的に裁判所へ行く必要は急速になくなっています。 実際、最近の札幌地方裁判所の中は、以前とはかなり雰囲気が変わってきました。 かつては、廊下で知り合いの弁護士に会い、雑談を交わし、相手方代理人と顔を合わせ、書記官と少し話をする――そんな日常がありました。 しかし今は、人が少ない。 裁判所の中で弁護士に出会うこと自体が減っています。建物の中が、どこか「がらん」としている。空洞化は、すでに始まっているのだと思います。

「人間が存在しない裁判」の不気味さ

もちろん、IT化によって効率は上がります。 移動時間は減り、遠方の依頼者の負担も軽くなる。便利になった部分は間違いなくあります。 しかしその一方で、裁判手続から「人間の気配」が消えつつあることに、強い違和感を覚えます。 人間が、人間に直接触れ合うことなく、裁判が進んでいく。 相手方の表情を見ることもない。裁判官の空気感を感じることもない。廊下で偶然会って和解の糸口が生まれることもない。 画面越しに、データだけが流れていく。 それは、生理的に受け付けない感覚です。 裁判とは、本来、人間同士の紛争を、人間が解決する営みだったはずです。 怒りも、悲しみも、後悔も、事情も、沈黙もある。その空気を共有するからこそ、和解や妥協や情状というものが存在してきた。 しかし、効率化されたデジタル空間では、そうした「人間的な揺らぎ」が削ぎ落とされていきます。 情けも何もない世界です。

AIが裁く社会は来るのか

行き帰りの飛行機では、ハリウッド映画『Mercy』を観ました。 作品の中では、刑事事件をAIが90分で審理します。 そして、有罪確率が92%を超えれば即処刑。 被告人には弁護人も付かず、自らAIを使って証拠を探し、自分で無罪を立証しなければならない。失敗すれば死刑です。 極端な設定ではあります。 しかし、現在進んでいるAI技術や司法のデジタル化を見ていると、単なるSFとして笑えない部分もあります。 AIは、膨大な判例や証拠を瞬時に分析できます。感情にも左右されない。効率性だけを見れば、人間より優れている場面もあるでしょう。 ですが、裁判とは、本当に「確率」で決めてよいものなのでしょうか。 人間の人生、背景、後悔、沈黙、空気――。そうした数値化できないものを、司法はこれまで扱ってきたはずです。 東京の通勤ラッシュを歩いていると、ときどきSF映画の中に入り込んだような感覚になります。 誰も無口で、整然と、ロボットのように歩いていく。 巨大なシステムの中を、人間が流れていく。 そして、その延長線上には、人間が裁判所へ行かなくなる世界、人間同士が接触しない司法、AIが判断を下す社会が待っているのかもしれません。 便利さと効率化の先で、私たちは「人間による司法」をどこまで残せるのか。 北海道から東京を見ていると、そんなことを考えさせられます。