2026.06.27
法は、使われてこそ人を守る ― 人はなぜ権利を行使することをためらうのか ―・・・ 一月一言
はじめに
日本の民法が施行されてから、既に百年以上が経過しました。また、日本国憲法の制定に伴う家族法の大改正からも半世紀以上を経ています。裁判制度や弁護士制度もまた、長い年月をかけて整備され、今日では世界に誇るべき法制度となっています。民法や民事訴訟法は、市民一人ひとりが裁判所という中立・公平な場において、自らの主張を述べ、証拠を提出し、裁判官による公正な判断を受けることを保障する制度です。しかし、どれほど優れた制度であっても、それが利用されなければ意味はありません。私は弁護士として日々相談を受ける中で、そのことを痛感しています。
法廷は、法の下の平等が実現される場所
裁判所では、当事者の社会的地位や経済力は、本来判断基準にはなりません。
相手が大企業であろうと、資産家であろうと、男性であろうと、行政機関であろうと、裁判官が判断するのは、法律上の要件を満たしているかどうかという一点です。
経済的弱者であっても、高齢者であっても、女性であっても、誰もが法の下の平等という憲法の理念に基づき、公平な判断を受けることができます。
これこそが、日本の司法制度の最も重要な価値であると私は考えています。
家庭や職場は、必ずしも平等な空間ではない
一方で、私たちの日常生活は、必ずしもそのような平等な世界ではありません。家庭では、力関係や経済力が支配することがあります。会社では上下関係があり、学校では多数派の論理が優先されることがあります。地域社会でも、組織の論理が個人の権利より優先される場面は少なくありません。
例えば、家庭内で夫婦が互いに暴力を振るったとしても、その場で直ちに公権力が介入することは多くありません。しかし、もし同じことが裁判所の法廷で起これば、法廷秩序を乱す重大な行為として厳しく対処されます。この違いは、法廷が「法によって支配される空間」であり、家庭や職場は、ともすれば「人間関係や力関係によって支配される空間」になり得ることを示しています。だからこそ、社会には裁判所という第三者機関が必要なのです。
人間は一生、人間関係に悩み続ける
以前、私の母が高齢者施設へ入所することになった際のことです。入所が決まり、いよいよ翌日に入所という日に、母から電話がありました。
「心配事がある。」そう言うので、私は、「食事もあるし、お風呂もある。職員の方も親切だから大丈夫だよ。何が心配なの。」
と尋ねました。すると母は、静かにこう答えました。「人間関係をうまくやっていけるか、それが一番心配なんだよ。」
私はその言葉を聞き、人は学校へ入り集団生活を始めてから、社会へ出て、家庭を築き、老人ホームへ入るまで、人生の最後まで、人間関係という課題を背負って生きていく存在なのだと改めて実感しました。
法律よりも人間関係を優先してしまう
法律相談でも、全く同じことが起こります。法律上は十分に権利が認められる可能性があるにもかかわらず、
「相手との関係が悪くなる。」
「家族だから。」
「長年の付き合いだから。」
「会社に居づらくなる。」
そうした理由で権利の行使を断念する方が少なくありません。法律よりも、人間関係が優先されてしまうのです。私は、そのような場面に接するたびに、法律家として何とも言えない寂しさを覚えます。
「私が我慢すればいい」と考えた女性
忘れられない相談者がいます。夫の不貞行為が明らかになり、ご相談に来られた女性でした。私は、まず家庭裁判所へ夫婦関係調整調停を申し立てることをお勧めしました。調停は訴訟ではありません。裁判官と調停委員が間に入り、双方の話を聞きながら解決を目指す、話し合いを基本とした制度です。
ところが、その女性は、「私が我慢すれば、このまま暮らしていけますから。」とおっしゃって、申立てを断念されました。
それから約一年後、その方は再び事務所を訪れました。精神的に深く傷つき、心を病んでおられました。そして、私にこう言われました。
「先生、あのとき先生のおっしゃるとおり、調停を申し立てておけばよかったです。」この言葉は、今でも私の心に深く残っています。
我慢は、必ずしも解決ではない
調停は訴訟ではありません。
勝ち負けを争う場ではなく、第三者の助けを借りて冷静に話し合う制度です。
それにもかかわらず、多くの方が「裁判所」という言葉だけで身構えてしまいます。
そして、
「自分さえ我慢すれば。」
「もう少し耐えれば。」
そう思いながら年月を重ね、心身をすり減らしてしまう方を、私は数多く見てきました。
もちろん、忍耐や譲歩が美徳となる場面はあります。
しかし、それは双方が歩み寄る場合に初めて意味を持ちます。
一方だけが耐え続けることは、決して真の解決ではありません。
医療訴訟でも「どうせ勝てない」と思い込んでしまう
医療事故の相談でも、
「病院には勝てない。」
「医療訴訟は難しい。」
という言葉を耳にすることがあります。
確かに、医療訴訟全体の認容率は一般の民事事件より低い傾向があります。
しかし、それは統計にすぎません。
個々の事件について勝訴できる可能性まで否定するものではありません。
医療事件は、カルテ、画像所見、医学的知見など、個別の証拠によって結論が大きく左右されます。
実際、私が担当している医療訴訟や医療調停でも、和解を含め、何らかの解決に至ることが少なくありません。
統計に負ける必要はありません。
大切なのは、自分の事件を正しく検討することです。
法律は、人間関係を壊すためのものではない
法律は、人間関係を壊すために存在するものではありません。壊れてしまった人間関係や、力関係によって均衡を失った状況を、公平な立場から整え直すために存在しています。そのために裁判所があり、調停制度があり、弁護士制度があります。法は、弱い立場に置かれた人を守るためにあります。
おわりに
法治国家とは、力のある者が勝つ社会ではありません。法によって判断される社会です。その制度は、百年以上にわたり多くの先人の努力によって築き上げられてきました。にもかかわらず、「どうせ無理だ」「我慢した方がいい」と最初から権利を放棄してしまう方は少なくありません。私は、その姿を見るたびに本当に残念な気持ちになります。せっかく法律という武器があり、弁護士という支援者がいるのです。必要なときには、その武器を手に取っていただきたい。法は、そこに存在するだけでは人を守ってくれません。法は、使われて初めて、その本来の価値を発揮するのです。