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2026.07.05

司法のIT化が問いかけるもの――「便利さ」の先にある司法の未来 *** 一月一言

はじめに――IT化ありきの議論でよいのでしょうか

本日付の北海道新聞には、「弁護士が裁判所へ行く時間を節約できる」等、裁判手続のIT化を高く評価する記事が掲載されていました。 私は、この記事を読み、一抹の寂しさを覚えました。記事全体が、「司法のIT化は望ましい」という大前提の上に立って論じられており、その前提そのものを問い直す視点が見当たらなかったからです。もちろん、IT化によって裁判へのアクセスが改善され、時間や費用が節約されるという利点は否定できません。しかし、その一方で、司法のIT化に危惧を抱いている弁護士も少なくありません。報道機関には、IT化を推進する立場だけではなく、それに慎重な立場や反対する立場の弁護士や研究者の意見にも耳を傾け、多角的な視点から国民に問題提起をしていただきたいと思います。司法制度は、一度大きく形を変えてしまえば、簡単には元に戻せないからです。

IT化は「場所」という概念を変えた

私は、パソコンがスタンドアロンで利用されていた時代から、LAN、インターネット、そしてクラウドへと発展していく時代を経験してきました。現在では、自宅でも出張先でも事務所と変わらない仕事ができます。会社へ出勤しなくても仕事ができる時代です。職場へ行かなければ苦手な上司と顔を合わせなくても済みます。企業にとっても、「会社はどこにあってもよい」という考え方が当たり前になりつつあります。IT化とは、単に仕事の方法を変えたのではありません。「場所」という概念そのものを変えてしまったのです。

裁判所も「場所」でなくなるのか

この流れは、司法にも及んでいます。現在の民事裁判では、その気になれば、弁護士は一度も裁判所へ行くことなく、一度も裁判官や相手方代理人と直接顔を合わせることなく、判決まで事件を終えることができます。確かに便利です。しかし、その先にある未来を考えたことがあるでしょうか。現在でも、刑事事件を除けば、民事事件で弁護士が裁判所へ来る機会は著しく減っています。そうなると、弁護士控室も、和解室も、大きな待合スペースも必要なくなります。裁判所に必要なのは、裁判官の執務室とコンピュータ設備だけということになりかねません。そうなれば、地方裁判所支部は次々と廃止・統合され、まずは札幌へ集約されるでしょう。さらに進めば、東京に巨大な「メガ裁判所」を設置し、全国の事件を集中的に処理し、地方には最小限の窓口だけを置くという未来も十分考えられます。これは決して空想ではありません。現在、多くの企業では札幌支店を廃止し、本社へ機能を集約する動きが進んでいます。社員はインターネットを利用して仕事ができるのですから、企業としては合理的な判断です。しかし、裁判所は企業ではありません。地域社会に司法機関が存在すること自体に、大きな意味があるはずです。

私が今も裁判所へ足を運ぶ理由

私は、現在でも、できる限り裁判所へ足を運ぶようにしています。事務所を札幌地方裁判所から徒歩五分ほどの場所に構えているのも、そのためです。オンラインで済ませることもできます。しかし、それであれば、高い賃料を支払って裁判所の近くに事務所を借りる意味がありません。実際には、私より裁判所に近い場所に事務所を構えている弁護士であっても、ほとんど裁判所へ来なくなりました。往復わずか10分程度の時間を節約することが、本当に司法にとって大きな利益なのでしょうか。私は、節約できる時間以上に、失っているものの方がはるかに大きいと思っています。ちなみに、裁判所に足を運びたいと書記官の方に説明をしたら、私がITに対応できていない弁護士という前提でお話をしてくる方がいます。私は全てのITシステムに対応できますが、あえて、裁判所に出向いていますと都度説明をしています。

裁判所から「熱気」が消えた

最近、日中に裁判所へ行くと、その静けさに驚かされます。以前は、法廷前のホールには和解を待つ当事者や代理人があふれ、裁判所全体に独特の熱気がありました。依頼者は緊張した面持ちで期日を待ち、和解が成立すれば安堵の表情を浮かべる。代理人同士が廊下で議論を交わし、裁判官と何気ない会話を交わす。若い弁護士は、その空気の中で先輩弁護士の仕事を見て学び、裁判所という文化に触れながら成長していきました。裁判所は、単に事件を処理する施設ではありません。法曹三者が互いに顔を合わせ、信頼関係を築き、司法文化を育んできた場所でもあったのです。しかし、今、その光景はありません。ホールは閑散とし、人影もまばらです。かつての熱気は消え、まるで砂漠のような静けさが広がっています。私は、この変化を「効率化」という一言だけで片付けることはできません。

司法の直接主義が失われる

私は、一度も直接会ったことのない裁判官に、自分の依頼者の人生を左右する判断を委ねたいとは思いません。裁判とは、書類だけを読む作業ではありません。裁判官、当事者、代理人が同じ空間で事件に向き合い、その空気や緊張感も含めて真実を探究する営みです。 これこそが、司法における直接主義の本質ではないでしょうか。その価値は、効率性だけでは測ることができません。

AI裁判官の時代は来るのか

裁判官と直接会うこともなく、事件がすべてオンラインで処理されるようになれば、人々は裁判官がどのような人物なのかにも関心を持たなくなるでしょう。そうなれば、「AI裁判官」が事件を判断してもよいではないかという議論が現実味を帯びてきます。書面を読み、判例を検索し、法令を適用するだけであれば、AIの方が速く、正確かもしれません。しかし、裁判とは単なる情報処理ではありません。人が人を裁く制度だからこそ、人間の裁判官が存在する意味があるのです。

おわりに――便利さだけで司法を語ってはならない

私は、司法のIT化そのものを否定しているわけではありません。IT化によって、裁判を利用しやすくなり、時間や費用が節約されることは歓迎すべき改革です。しかし、その便利さの陰で失われるものについては、ほとんど議論されていません。地域に裁判所が存在する意味。 裁判官、当事者、代理人が直接向き合う意味。裁判所という空間が育んできた司法文化の意味。これらは、決して効率性だけでは評価できない価値です。司法は、単なる行政サービスではありません。人が人の人生を判断するという、国家の根幹を支える営みです。だからこそ、司法のIT化を礼賛するだけではなく、その光と影の双方を見据え、「私たちはどのような司法を次の世代に残すのか」を、今こそ真剣に議論すべき時期に来ているのではないでしょうか。