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2026.11.04

映画は本当に進歩したのか ――『ゴジラ-0.0』、小林正樹監督、そして弁護士の仕事について   一月一言

映画は本当に進歩したのか

――『ゴジラ-0.0』、小林正樹監督、そして弁護士の仕事について

先日、封切りになったばかりの山崎貴監督作品『ゴジラ-0.0』を鑑賞した。 まず、その映像技術には圧倒された。 ゴジラは、もはやコンピューターで作られた怪獣というより、実際に生きている巨大生物のようである。冒頭から登場するキングギドラの描写も見事だった。三つの首がそれぞれ意思を持って動いているかのような表現には、驚嘆するほかなかった。 日本映画の映像技術が、ここまで進歩したことは素晴らしい。 しかし、観終わって、何か物足りなさが残った。 映像は確かに進歩した。しかし、映画そのものは果たして進歩したのだろうか。 そんなことを考えさせられたのである。

1 封切り後の高い評価と、私の違和感

『ゴジラ-0.0』の評判は、公開直後から非常に良い。 11月4日時点で、映画レビューサイトFilmarksの評価は5点満点中4.1点、レビューは7,000件を超えている。米国の映画批評サイトRotten Tomatoesでも、批評家の91%が肯定的に評価している。 映像技術については、国内外ともに絶賛に近い評価が目立つ。 私も、その点には全く異論がない。 一方で、作品全体に対する評価は必ずしも一様ではない。 国内の映画評論でも後半のドラマ部分の弱さが指摘されており、海外でも、前作ほど物語に一貫性がないという評価が見られる。 もっとも、人間ドラマを高く評価する評論家や観客も少なくない。感動したという感想も数多く寄せられている。 つまり、娯楽映画としての完成度を高く評価する声が多い一方で、人物造形や物語の深さについては、意見が分かれているのである。 私自身は、物語という点では前作『ゴジラ-1.0』の方が優れていたと思う。 前作では、戦争を生き延びた主人公の罪悪感、家族への思い、そして自分が生き残ったことの意味が丁寧に描かれていた。 ゴジラと戦うことが、主人公自身の過去と向き合い、生きる意味を取り戻すことにもつながっていた。 怪獣映画でありながら、優れた人間ドラマでもあったのである。 今回の作品には、そこが少し不足しているように感じられた。 特に吉岡秀隆が演じる野田博士や、田中泯が演じる村上博士については、もっと人物の内面を掘り下げてほしかった。 二人の学者の生き様には、1954年の第1作『ゴジラ』でオキシジェン・デストロイヤーを開発した芹沢博士の精神に通じるものがある。 科学者としての責任、人類の未来への思い、自らの信念を貫く覚悟。 実に重い主題である。 それだけに、そうした決断に至るまでの人間的な葛藤を、もっと時間をかけて描いてほしかったと思う。 山崎監督の映像表現は、既に世界最高水準に達しているといってよい。 だからこそ、人物の描き方についても、さらなる高みを目指していただきたいと思うのである。

2 伊福部昭の音楽が教えてくれるもの

『ゴジラ』といえば、伊福部昭の音楽を忘れることはできない。 あの重厚な旋律、圧倒的なリズム。音楽を聴くだけでゴジラの巨大な姿が目に浮かんでくる。 伊福部昭は北海道釧路の生まれで、1935年に北海道帝国大学農学部林学実科を卒業している。 北海道にゆかりの深い作曲家であることにも、私は親しみを感じる。 今回の作品の音楽担当は佐藤直紀だが、伊福部昭が築いたゴジラ音楽の伝統は、今もシリーズを支えている。 そして興味深いことに、1963年の工藤栄一監督作品『十三人の刺客』の音楽も伊福部昭が担当している。 ゴジラの巨大な存在感を表現した音楽家が、武士たちの緊張と決意を描く時代劇にも携わっていたのである。 伊福部の音楽が素晴らしいのは、単に場面を盛り上げるからではない。 そこにある人間の恐怖、覚悟、そして言葉では表現できない感情までも、音楽によって伝えてくれるからだと思う。 優れた映画音楽も、結局は人間の心を描いているのである。

3 小林正樹監督の映画には「間」がある

最近、私は小林正樹監督の『切腹』や『上意討ち 拝領妻始末』を改めて鑑賞し、深い感銘を受けた。 特に『切腹』は、日本映画が到達した最高峰の一つだと思っている。 派手な映像効果などない。 登場人物が静かに語り、相手がそれを聞く。長い沈黙があり、視線が交錯する。 ところが、その沈黙には恐ろしいほどの緊張感がある。 仲代達矢演じる津雲半四郎が、井伊家の屋敷で淡々と語り始める場面など、まさにその典型である。 物語が進むにつれて、それまで見えていなかった人間の悲しみや怒り、権威の欺瞞が明らかになっていく。 観客は、登場人物の言葉に耳を傾けながら、その心の奥底にあるものを想像する。 そこに、日本映画ならではの「間」がある。 同じことは、1963年の片岡千恵蔵主演『十三人の刺客』にもいえる。 2010年の三池崇史監督によるリメイク版も優れた作品であり、壮絶な戦闘場面は圧巻である。 しかし、私は片岡千恵蔵版の方が圧倒的に好きである。 決起に至るまでの武士たちの葛藤、覚悟を固めるまでの時間、そして片岡千恵蔵の重厚な演技。 戦闘の迫力だけではない。 戦いに至るまでに、どれほどの思いが積み重ねられてきたのか。それを観客に感じさせるのである。 日本映画の「間」とは、何も起きていない無駄な時間ではない。人間の心の中で、最も大切なことが起きている時間なのだと思う。

4 タイパ、コスパがすべてなのだろうか

最近は、何事についても「タイパ」「コスパ」が重視される。 映画やドラマを倍速で観る人もいるという。 短時間で結論を知りたい。余計な場面は省いてほしい。効率よく物事を理解したい。 しかし、映画は結末さえ分かればよいというものではないだろう。 主人公が何を考え、どのように悩み、なぜその決断をしたのか。 そこをじっくり見つめることに、映画の大きな魅力がある。 あらすじだけを知ればよいのであれば、何も2時間かけて映画を観る必要はない。 技術が進歩しても、人間を描くことの深さが失われてしまっては、本当の進歩とはいえない。 そして、私は、このことは映画だけの問題ではないと考えている。

5 弁護士の仕事にも「間」が必要である

私は長年、弁護士として裁判や調停に携わってきた。 近年、司法の世界でもデジタル化が急速に進んでいる。 ウェブ会議によって、弁護士は事務所の自分の席から裁判期日に参加できる。 遠方の裁判所に出向く必要もなく、移動時間や交通費を節約できる。 実に便利になった。 こうした技術の進歩を、私は否定するつもりはない。 しかし、私は、できることなら裁判所に出向き、裁判官や相手方弁護士と直接顔を合わせて議論する、従来のやり方が好きである。 同じ場所に集まって、互いの表情を見ながら意見を述べる。 時には激しい議論になる。相手の主張に納得できず、感情が高ぶることもある。 しかし、そのような場面だからこそ、直接顔を合わせることに意味があると思う。 相手の表情、声の調子、発言するまでの沈黙。 言葉だけでは伝わらないものが、そこにはある。 裁判官が何を考えているのか。相手方弁護士は、こちらの主張をどう受け止めているのか。 互いの顔を見ながら議論することで、少しずつ信頼関係が生まれることもある。 それがウェブ会議になると、どうしても人間関係が希薄になりがちである。 画面越しに「こんにちは」と挨拶し、用件を確認し、必要なことを話し終えたら接続を切る。 確かに効率的である。 しかし、私は、それだけで十分とは思わない。 裁判とは、法律の条文を当てはめて結論を出すだけの作業ではない。人間と人間が、時には激しく対立しながらも、相手の言い分を理解し、納得できる解決を探る営みなのである。 ウェブ会議では、その大切な部分が失われてしまうことがあるのではないだろうか。

6 裁判を早く終わらせることと、話を十分に聞くことは矛盾しない

もっとも、私は裁判や調停を無用に長引かせるべきだとは考えていない。 むしろ、調停などは、争点を整理し、双方が十分に準備をした上で、できる限り少ない回数で実質的な解決を図るべきだと思っている。 ただし、ここで大切なのは、無駄な時間を減らすことと、必要な時間まで削ってしまうことは、全く違うということである。 当事者の話を十分に聞かず、ただ形式的に期日を重ねることには意味がない。 しかし、相手の言い分を真剣に聞き、必要な議論を尽くすための時間は、決して無駄ではない。 特に離婚、相続、医療事故など、人間の感情が深く関わる事件では、このことが重要だと思う。 当事者は、必ずしも金銭的な結論だけを求めているわけではない。 自分が経験した苦しみを理解してほしい。 自分の言い分を聞いてほしい。 なぜ、このようなことになったのか、その理由を納得できる形で知りたい。 そうした思いを抱えて裁判所に来るのである。 裁判官も弁護士も、そのことを忘れてはならない。 裁判所まで足を運び、相手と向き合い、言葉を交わすという行為そのものに、一定の価値がある。 それを単に移動時間の無駄、コストの無駄と片づけてよいのだろうか。 便利になったことと、良くなったことは、必ずしも同じではないのである。

7 古いことは、そんなに悪いことなのだろうか

こんなことを言うと、私は古い人間だと批判されるかもしれない。 しかし、古いものにも、残すべき価値はある。 小林正樹監督の『切腹』が、60年以上を経た今日でも深い感動を与えるのはなぜだろうか。 片岡千恵蔵の『十三人の刺客』が、最新の映像技術を駆使した作品にも劣らない魅力を持ち続けているのはなぜだろうか。 それは、人間の本質を描いているからだと思う。 技術は時代とともに進歩する。 しかし、人間が悩み、苦しみ、怒り、愛し、信頼を求めるという本質は、そう簡単には変わらない。 法律の世界も同じである。 新しい技術は積極的に利用すればよい。しかし、それによって、人間と人間が向き合うことの価値まで失われてはならない。 私は、古い映画のように、ゆっくりと相手の言葉に耳を傾け、時には沈黙し、必要なときには真正面から議論する。 そんな弁護士の仕事のあり方を、これからも大切にしたいと思っている。 映画は映像技術だけで進歩するものではない。司法もまた、手続の効率化だけで進歩するものではない。 その中心には、いつの時代も人間がいる。 人間を見つめ、人間を理解しようとする姿勢が失われれば、どれほど技術が進歩しても、本当の意味で豊かになったとはいえないのではないだろうか。 『ゴジラ-0.0』の圧倒的な映像を楽しみながら、私はそんなことを考えていた。 山崎貴監督には、今後も大いに期待している。 次は、映像の迫力に匹敵する、あるいはそれを超えるほど深い人間ドラマを見せていただきたい。 そして私自身も、便利さや効率の良さだけを追うのではなく、人間と向き合う法律家であり続けたいと思うのである。

髙橋智法律事務所 弁護士 髙橋 智
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