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北大・給湯族の思い出(札幌弁護士会会報2006年7月号掲載より)

 

  • 北大・給湯族の思い出

    〜司法試験受験生の青春譜〜

     昭和50年代(1975〜1985)、北海道大学法学部1階給湯室に集う多くの司法試験受験生がいた。彼らは給湯室にたむろしていることから給湯族と内外から呼ばれるようになった。

     受験生仲間には多種多様な人々がいた。北海道大学法学部の留年生、卒業生だけではなく、他の大学を卒業して地元札幌に戻って受験勉強をしている者もいた。仕事をせず受験勉強に専念している者もいれば、仕事を持ちながら択一前、論文前だけ集中して勉強にくる者もいた。また、当時大学院で勉強をして、他大学に採用されるべく努力していた者たちも集っていた。

     北海道大学法学部は大らかで、たとえ北海道大学と縁もゆかりもない者であっても、法学部の自習室を開放して(実際は黙認して)くれていたのである。

     かくいう私は、北海道大学を卒業せず留年して昭和56年に給湯族に入り、昭和59年に卒業してからも、司法試験に合格した昭和63年まで給湯族になっていた。

     札幌にまだ受験予備校がほとんど進出してきていない時代の話である。

     受験新報が情報源だったし、基本書も民法は有斐閣双書、刑法は大塚、憲法は佐藤、民事訴訟は新堂、商法は鈴木という時代であった。受験予備校から論点を要領よくまとめたテキストなど出ていなかった時代である。

     給湯族の典型的な生活パターンは、朝9時頃には法学部の自習室にきて、勉強を開始、昼に給湯室でご飯を食べるなど談笑し、夜はクラーク会館でカレッジランチかエルムランチを食べて、北大生協の本屋で本を見て、給湯室に戻り、晩ご飯後の談笑をして、夜10時に法学部が施錠されるまで、また勉強をするというものであった。

     一日中自習室の机を占拠しているのであるが、皆同じ机に座るのであるから、席が固定化し、給湯族の中には、自習室の机に備え付けられている棚に自分の基本書をおいたままにしているものもいた。

     かくいう私は、禁煙となっていた211の窓際の席を利用していた。同部屋では、小坂先生が勉強していたと記憶している。

     給湯族は、給湯室に降りてきてコーヒーを作って飲んで休憩していたが、コーヒー豆等はみんなで金を出し合ってまとめ買いをしたりしていた。また、休憩の間にする囲碁、将棋の道具もあった。

     給湯室では、択一試験、論文試験に備えて、様々な議論をしていた。たとえば、表見代理人の責任と相続の問題や内閣総理大臣の解散権などの典型論点から、ビルの上から自殺しようとした者を落下途中にライフルで撃ち殺したら殺人罪になるか、女性を襲うとしたらお地蔵さんだったら犯罪になるか等非現実的な問題まで、様々な分野について議論がなされた。

     この議論には暗黙のルールがあり、複数の者が議論に参加するが、参加したものは絶対に自分の説をあきらめないということである。自分の説でとことん押し通し、様々な観点から反論を試みるのである。そして、その場では議論に負けても、自説を新たに補強する根拠を調べたり、考えたりして、再度議論を戦わすこともあった。議論が直接司法試験にどれだけ役立ったかは別として、ここでは議論の仕方、絶対にあきらめないことを学んだように思う。

     当時、札幌で択一を受験して合格し、旧検察庁の屋上にある小さな会議室で行われる論文試験を受験するのは50名程度であったが、択一で足をすくわれる者もいたが(私も結構すくわれた方である)、ほとんどの給湯族は論文試験にチャレンジしていた。

     論文試験から秋の合格発表までの間は、論文合格を前提に口述対策ゼミを行ってきた。

     そして、給湯族の仲間から最終合格者がでると、最終合格者は恩返しに、ゼミのチューターを務め受験のノウハウを引き継いでいった。

     口述試験に進める論文合格者は、毎年3名から6名程度にすぎなかったが、それでもそのほとんどが「給湯族」出身者だった。

     給湯族から合格者がでると強烈にうらやましいという気持ちが起きると同時に、互いに議論したり、普段の勉強方法や勉強に対する姿勢を見たりしているだけに、あいつでも受かったのであるから自分が合格しないはずがないとか、次は自分の番だろうと考えることができた。

     このようにモチベーションを途切れさせずに最終合格を目指すことができたのが給湯室にいる一番の価値だったのかもしれない。

     もちろん、給湯室では議論だけをしていたのではない。囲碁、将棋、トランプなどをして、気分転換などもしたが、気分転換のつもりで始めた囲碁や将棋を一日中していて一日が終わるという日も結構あった。同時期に給湯族であった亀田先生は囲碁が強かったし、奥泉先生は将棋が強かった。どちらにも勝てなかったことをよく覚えている。囲碁熱が高じて、参加費を出してもらって賞品を買って、給湯室で囲碁大会も行った。

     スポーツもした。北大周辺のグランドや競馬場内のグランドを借りて、ソフトボール大会を行った。ソフトボール大会には3チームが出場して、総当たりで勝敗を決したが、1チーム10名程度いたから、給湯族関係者は30名前後いたことになる。

     小樽でおいしいものを食べる小旅行などもしたことがある。

     「給湯族」は、合格した給湯族の送別会もした。毎年、地下鉄北24条駅周辺の居酒屋「なると」でおこなっていたが、先日、十数年ぶりに「なると」に行ったら、ご主人がお元気で、私のことを覚えてくれていたのがとてもうれしかった。

     様々な企画は、論文試験から論文合格発表の間に行われた。この間というのは誰もが合格を夢見ることができる時期であり、ワールドカップ開催前のサッカーチームに属している選手のような心境であり、優勝(最終合格)する実力がなくても、優勝(最終合格)するという希望を胸に抱けるのである。

    4日間の受験の終了後の開放感はもう味わうことができない感覚だろうと思う。論文試験には通算5回ほどチャレンジしたが、そのたびにこの感覚を味わえたのは本当に幸せだったと思う。

     金は本当になく、いつも決まった服を着て給湯室に出入りしていたが(あの頃のことを思い出すと、顔と服装が一致するくらいである。ちなみに、私は、体重が100キロを超えていたので、太っているのを隠すために、青色のチョッキをいつも身につけており、このため太っているのが逆に目立っていた)、時間を自由に使い、ぎりぎりまで努力をした後に、すばらしい開放感に長時間浸ることができたことは、本当に幸せなことであった。

     話はずれるが、「給湯族」に特に人気のあった大学の先生は、何と言っても民事訴訟法の小山昇先生である。小山昇先生は民訴法の大家でありながら、現役生、卒業生の分け隔てなく答案を添削して下さった。憲法の中村睦男先生(現北海道大学学長)、大塚龍児先生など、受験生の面倒を本当に親身になってみて下さった先生は人気があった。

     小山先生には多くの給湯族がお世話になったと思う。当時は、北大では司法試験をほとんど軽視しており、司法試験合格者が何人であっても全く関係なく、学者は自分の研究のことだけを主に考えていれば良かったという時代である。その中で、小山先生は本当によくしてくださった。

     小山先生のご挨拶、小山先生から戴く手紙は、すべて起承転結があり、簡潔で、感心させられることしきりである。そういえば、論文も簡にして要を得たものでなければならないといつもおっしゃってくださったが、なかなかできなかったのを覚えている。

     このように、北海道大学法学部は、学生の身分を持たない「給湯族」も受け入れる懐の深さがあり、そのことが北海道大学法学部の良さだと思っていた。

     皆感謝して勉強し、合格したら、後輩を一生懸命指導して恩返ししていった。

     ところが、私が合格した後すぐに、「給湯族」は消滅した。現役の学生らから、何の資格もない「給湯族」が自習室や給湯室にたむろしているのは目障りであるという訴えがあったということなのだ。正論を言われたら「給湯族」は弱い。給湯室は、演習室に改築され、この時点で「給湯室」は消滅した。

     また、自習室も学生しかつかえなくなってしまったのだ。

     「給湯室」後、北大の合格者が激減したのは当然の結果であった。

     氷河期の到来である。

     司法試験受験生の合格者が1000名になり、ロースクールの設立がきまってから、法学部の司法試験を意識せざるを得なくなったのであろうか、現行試験の北海道大学の合格者は20名を超えるようになった。

     これは北海道大学の先生方が司法試験受験生を応援し始めたからであると聞いている。そしてその中心になってくださっているのは大学院生だった当時給湯室にちょくちょく顔を出してくれていた先生方だそうである。

     今、弁護士になって、役立っているのは、「給湯族」で、お互いに、興味に任せて法律論を戦わせていた時の思考方法であり、議論方法である。そして、あきらめない気持ちである。どんな問題にも解決策はあるし、どんな不利な状況でも理屈を立てることができると信じているのはその時の経験からである。受験予備校のテキストだけで勉強したのでは決して身につかないことだと思う。

     
  • そして何よりも、「給湯族」の間で培われた人間関係は一生ものであり、生涯の財産である。

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