コラム

2020.11.21

旅をめぐる思いあれこれ

旅の楽しみは計画にあり

旅の醍醐味の大半は、計画にあると思います。パック旅行は面倒なく危険もないので良いのですが、旅の楽しみの半分を捨てているといえるでしょう。パック旅行の値段が安いのは、旅の醍醐味の大半が欠けているからかもしれません。どの空港で降りて、どの鉄道を使って、どの町に宿泊するのか、何を見るのかを空想している時が最高に幸せなのです。

旅は一人でするもの

計画したら、旅は一人で行くものでしょう。私は、日本人のツーリストが誰もいないような海外の小さな町に一人で行くのが大好きです。
なぜなら、異邦人になれるからです。肩書きを捨てて一人になってみることは本当に大切なことだと思います。訥々とした英語を駆使しながら何とか宿泊したり、レストランで食事をしたり。結構緊張しますが、これもまた一興です。
イギリスの小さな町の美術館のレストランでワインを飲んでいたら、隣の家族連れの男性から声を掛けられました。とても楽しそうなので写真を撮ってやろうと言ってくれたのです。多分、本当にいい顔をしていたのでしょうね。

テイクオフの瞬間こそ旅の楽しみ

旅の計画を実行に移す時は楽しみの極みでしょう。その中でも一番の時間は、旅の時間を作るために必死で寝る間を惜しんで仕事をこなして、国際便の飛行機に乗り込んでテイクオフするときでしょう。オフを取るという意味と、飛行機が飛ぶという意味が重なる瞬間です。

帰還する時の気持ちの大切さ

日本を遠く離れていると、本当にあんな小さい日本のさらに、最果ての札幌に本当に戻れるのかと思えてきます。そして帰国が近くなると、自分の帰るところはやはり札幌しかないのだと思えてきて、明日への活力が出てくるのです。

旅をするにも体力がいる

日本を遠く離れていると、本当にあんな小さい日本のさらに、最果ての札幌に本当に戻れるのかと思えてきます。そして帰国が近くなると、自分の帰るところはやはり札幌しかないのだと思えてきて、明日への活力が出てくるのです。

2020.11.21

待ち時間をめぐるあれこれ

待ち時間の楽しみ方とストレス

ウィンブルドン・テニス大会の初日。試合は開始されたものの、雨のため1時間程度一時中断され、その後、約5時間待ったが、結局試合は開始されなかった。その間、雨よけのあるセンターコートでずっと待たされ続けたのだが、不思議と退屈しなかった。観客もほとんど立ち去ろうとせず、名物のウィンブルドンの雨と楽しんでいるようだった。
ディズニーランドでは待ち時間がつきものだが、友だちや家族と人気アトラクションに並んで待つあいだ、いろいろ話をしているうちにどんどん自分の番が近づいてきて、期待感が高まっていく。こんな時は待っている時間がむしろ楽しい。
数年前、ワシントンDCやフロリダを視察した際、9・11のテロ事件が起き、飛行機が数日間全便欠航し、いつ戻れるとも知れない事態に遭遇した。同行者の中には、ストレスから添乗員にクレームを連発している方々がいた。待たされている事情が飲み込めない時、ストレスは倍増するもののようである。

公平を期するにも時間がかかる

裁判手続には時間がかかる。どうして時間がかかるのかという質問をよく受けるが、「裁判手続は、世の中でもっとも公平な民主主義的手続だから」と答えている。
法廷の外では、声の大きい者、腕力の強い者、政治力を持っている者、組織力を持っている者の言い分が通りやすいが、法廷の中だけは、理屈によって勝敗が決まる。
腕力が弱い女性でも離婚訴訟で勝てるし、経済的弱者でも国を相手に勝訴することもできるのである。しかし、それだけに、裁判には説得力が必要だ。そして、その説得力を得るには、双方の言い分を公平に十分聞くことが必要だ。だからどうしても時間がかかるのである。

待つ側と待たせる側

弁護士をしていると、待つ側になるよりも、待たせる側になってしまうことが多い。裁判所で和解や尋問に時間をとられ、クライアントの方をお待たせしてしまうことがある。クライアントのみなさまは、どなたも気をつかって、アポイントメントの時間よりも前に来て待ってくださり、文句一つ言わず、遅れたことを許してくださる。本当にいつも感謝している。

2020.11.21

挨拶をめぐるあれこれ

日本人同士は愛想が悪い?

海外の人から日本人はよく愛想がいいと言われる。
しかし、国内線を利用して飛行機から降りるとき、客室乗務員の美しい女性が挨拶をしていても、ほとんどの乗客が無表情でというよりむしろ不機嫌そうに通り過ぎていく。同じ光景はJRでグリーン車を利用して、目的地に着いたときも同じだ。レストランで食事をした時も、けっしてお店の人には、おいしかったとは言わない。
ところが、国際線で外国の航空会社で出かけたときは、目的地に着くと、日本人の乗客は笑顔で挨拶を交わして降りていく。
外国のホテルのエレベーターでも同じだ。海外に行くと、朝エレベーターに乗って知らない人と乗り合わせても、必ず現地の言葉で「おはよう」と声をかけてくる。一方国内のホテルではそのような光景にお目にかかることはまずない。道を聞いてきて、お礼を言わないで行ってしまう人も多い。

挨拶は敵意がないことの証し?

海外ではちょっとでも相手に触れると相手は謝ってくる。国内では、人の体にぶつかろうとお構いなしで、われ先に地下鉄に乗り込む人が多い。
日本人のこのような特徴について、日本人同士は民族性や歴史的に統一性があり、互いに信頼関係があるから挨拶は不要なのだという人がいる。
日本のように相互の信頼関係が厚い国では、やたらと挨拶をする人はかえって警戒され、海外では逆にお互いに挨拶をして、敵意を持っていないことを示す必要があるというのだが、的確な指摘だと思う。

失われていく信頼関係

しかし、最近次々に起きる凶悪な事件の数々を見ると、互いに信頼関係があるとは到底思えない国になっている。(私の身近にある裁判所の中で刃物を振り回す男が現れたくらいだ)。
だから、もうすぐ日本でも、自分が危険でない人物であることを示すために、笑顔でだれとでも挨拶を交わせねばならない時代が来るかもしれない。

2020.11.21

景観をめぐるあれこれ

日本三大がっかり?

日本三大がっかりというのをご存知だろうか。俗説だが、土佐高知の「はりまや橋」と、那覇の「守礼の門」、そしてビルの谷間に埋没している「札幌時計台」だそうである。
パリでエッフェル塔を見て感心したことは、塔の周囲に大きな建物がなく、公園が広がっていて、エッフェル塔の雄大さが演出されている点である。エッフェル塔の周囲に、高層マンションやオフィスビルが建っていたら、エッフェル塔の魅力は台無しになってしまう。
ヨーロッパには、オランダ、フランスを筆頭に、建物のデザインや大きさを規制して、町並みの景観を保全している国が多い。景観は、パブリックなものという意識が根付いているのだ。

眺望を一人占め

かつては旧道庁赤レンガが一番大きな建物で、札幌市内のどこからでも見渡せたそうだ。また、札幌は円山・手稲山・藻岩山など山々を間近に感じることができるところが魅力だった。
最近、超高層マンションの企画が多い。一昔前までは、容積率や建坪率の規制が厳しかったため、10階以上の建物は容易に建たなかった。最近は、中心部の再開発や景気を回復させる目的で、規制がほとんどなくなった。このため、札幌でも景観の良い場所にどんどん高層マンションが建っていく。住む人は景観を独り占めできるため、売れ行きは順調だと聞く。札幌を囲むようにしてそびえている山々の稜線や、大通公園や知事公館、旧道庁のお堀などを眺めて暮らせたらさぞ幸せな気分だろう。

眺望は誰のものか

凱旋門の上から見たエッフェル塔。
2004年10月 弁護士高橋智撮影

しかし、見方を変えれば、そのようなマンションが多く建てられているということは、せっかく眺めの良いところを訪れても、否が応でもマンションが目に飛び込んでくるということであり、景観が破壊されているということである。「景観」がパブリックなものだという意識を持てば、街の見方も違ってくるはずだ。
大通公園から噴水とテレビ塔をバックに写真を撮っても、その後ろに、どうアングルを変えても、超高層マンション群が必ず写り込んでしまうという時代が来るかもしれない。

2020.11.21

旅の楽しみ方あれこれ

さいはての地のカラオケ

昨年秋、北海道弁護士会連合会公害環境委員会の視察で、知床の自然保護地区を訪れた。2泊3日の調査で、宿泊したのは、国立公園内でもっとも知床半島の奥にある温泉のホテルだった。
ここは携帯電話の電波の届かない場所である。外にでて耳を澄ましても、何の音も聞こえない。このようなところに来ると、日頃都会の喧噪の中で暮らしているということに気づかされる。
それは夜の食事となり、初日の調査の成果などを話している時だった。隣の宴会場からカラオケが響いてきた。数十人の宴会だ。
さいはての知床の夜を、どうしてカラオケを唄って過ごさねばならないのかがまったく理解できなかった。どうして都会でできることを、わざわざ知床に来てまでするのだろうか?

薪ストーブの暖かさ

2日目の視察では、知床の特別保護区にある番屋を訪れた。薪ストーブを囲んで、この地のさまざまなことについて船頭さんのお話を聞くことができた。
薪ストーブは、自然の恵みを実感させてくれる。1本の薪が燃える時に出す火力は、思いがけず大きいし、長持ちするものだ。すきま風とともに、海のにおいと、波の音が番屋に流れこんでくる。外を見渡せば番屋以外には何の人工物もない。自然のほかになにもない。このような場所に身を置くだけで癒しを感じることができる。
視察の帰り、車のライトを消して外に出ると、上空には星がきれいにまたたいていた。

不便さを楽しむ旅のススメ

知床にて。2004年10月
弁護士高橋智撮影

不便なことが貴重な世の中ではないだろうか。携帯電話も繋がらない。カラオケもない。テレビもない。そういうところで温泉につかって、星を眺めながら静かに夫婦で話して過ごすというのはどうだろうか。
観光=団体ツアー=宴会・食べ放題=カラオケというお仕着せの観光に、日本人は本当に満足しているのであろうか。
旅好きの方も多いと思うが、一度団体旅行を離れて、一人で計画を立てて、不便な土地に行ってみてはどうだろう。便利なことは世の中にあふれている。不便さを味わうことで発見できる、旅の喜びもあるはずである。

2020.11.21

電車をめぐるあれこれ

札幌の市電は便利なのに・・・

事務所の窓からは大倉山シャンツェが見え、その下を市電が行き交い、時々「どですかでん」という音が聞こえてくる。なかなか癒される音である。大通のデパート街に行くには市電が便利だ。地下に潜る必要もなく、本数も結構結る。
でも、市電に乗るとがっかりすることもたくさんある。まず、路面電車が赤信号で止まることだ。また、違法駐車車両で道幅が狭くなっているため、時々警笛を鳴らすが、立ち往生することもある。
僕が視察で訪れたドイツやフランスの路面電車(LRT)は信号と連動しているため、赤信号で止まることがない。また、路面電車を優先させるというマナーも徹底している。

改札などなくてもいい。

改札があることも残念だ。改札が当たり前と思っている日本人は多いのではないだろうか。欧州には鉄道を含めて改札はない。一度改札がない便利さを体験すると、電車から降りるのに行列を作らねばならないというのはあまりにも不便に感じる。駅に着いたらドアが開き、いっせいに人が乗り降りする。それだけで、運転時間は倍以上短縮されるはずだ。そうなると絶対に地下鉄より路面電車が便利だ。まさに、横に動く都市のエスカレーターと一言えよう。

人を中心に街を考えよう。

フランス・モンペリエ/
コメディ広場を走るLRT

路面電車の通る中心街から自動車を閉め出すと、排気ガスも騒音もない、出かけるのが楽しい街になる。欧州では、このようなトランジットモールを作るようになって、中心街のお客さんが増えている。一番の人気は排気ガスと騒音のない通りでとるランチである。また、今まで聞こえなかった鳥の声も聞こえてくるだろう。
改札をやめるとか、路面電車を優先させるとかは、すぐにでもできそうなことだ。発想を変えればいい。「車がないとお客が来ない」、「改札がないとただ乗りする人が増える」、そういう発想を転換しないとだめな時がきているような気がする。それは、都市では自動車が中心ではなく、人が中心だという発想の転換でもある。

2020.11.21

煙草をめぐるあれこれ

煙草の匂いがイヤなんです。

事務所は全面禁煙にさせていただいている。事務所開業当初は原則禁煙で、クライアントの皆さんに灰皿を用意しておいたこともあるが、すぐに、絶対禁煙になった。
理由は、煙草を喫んだ後の残り香がいつまでも消えないことにあった。煙草が苦手という人は煙草の煙独特の香りが嫌だという人が多い。煙草の煙の粒子は、衣服や髪に付着すると一日取れない。それがストレスとなるのである。
人間にはそれぞれ自分の臭いというものを持っているそうであるが、自分と異質の臭いが絶えず自分から漂っている状態はかなりストレスとなる。 このような悩みはいつも煙草の臭いが消えない愛煙家の方にはわからないのかもしれない。喫煙自由の職場で、ストレスに耐えながら毎日仕事をしなければならない苦しみを持っている人が多いことを愛煙家の方にぜひ知っていただきたい。
稚内から旭川まで喫煙車両にしか空席がなく、死ぬような思いで数時間列車に揺られたこと、サイパンまで行く飛行機が当時喫煙自由で、食事が終わった後、乗客が一斉に煙草を吸い始め、客室内が真っ白になったことなど、煙草を巡る強烈な思い出も多い。

吸うなとは言いにくい。

弁護士会の会議では、喫煙しながら会議が行われることもある。愛煙家が先輩の方だと、煙草をやめて欲しいとはなかなか言い出せない。それを言い出すことによって、人間関係が悪化することを恐れるからだ
おいしい蕎麦屋や寿司屋でも同じだ。おいしい蕎麦を食べようとしてるのに、隣から煙草の煙や臭いが来たのではたまったものではない。でも、やめて欲しいとはなかなか言い出せない。家族で美味しいレストランに入っても、煙草の香りが漂ってきただけで、がっくりしてしまう。蕎麦屋や寿司屋など、香りや味が極めて大切なお店で喫煙が自由なのは理解できない。贔屓にしているお寿司屋のカウンター席は全面禁煙だ。

煙草を巡る悩みは尽きない。

医療訴訟を手がけているので、ガンの発生の機序を勉強したことがある。ガン細胞は、増殖を繰り返す、成長する細胞である。このような細胞が突然変異で生まれる場所は絶えず細胞が新陳代謝を繰り返す場所であり、煙草を吸っている人の場合は、肺や器官である。煙草を喫すれば肺ガンになる確率が増えることは当然なのである。また、入院中の乳児が死亡した事例の際勉強したが、乳児突然死症候群と呼ばれる乳児の突然死は、母親が喫煙する場合に発症する確率が高いといわれている。
煙草を喫むこと自体は個人の自由であり尊重されねばならないのは当然だ。しかし、問題は煙草の影響を受けたくない人の権利といかに調整するかである。煙草の煙は時間と場所を越えて影響を及ぼすだけにその調整が難しい。煙草を巡る悩みは尽きそうにもない。

2020.11.20

【1963年~】幻の街「真駒内」 ~幼き日の原風景~

アメリカの片田舎のような風景。

幼稚園から高校1年まで、真駒内で過ごした約10年間が幼い日の原風景だ。物心がついた頃住んでいたのは、美香保公園の近くだったが、幼稚園に入る頃真駒内の市営団地に移った。当時の真駒内は、今思えば、アメリカの片田舎のようなところだった。真駒内アイスアリーナのところには進駐軍(第二次世界大戦後の米軍)が残したゴルフ場、五輪団地の場所には進駐軍が残した白亜の住宅があって警察学校と警察職員の住宅になっていた。元進駐軍がいた住宅地は芝生が敷きつめられ、歩道には大きなコンクリート板がドミノのように並べられ小道を造っていた。ナナカマドやオンコの木が植栽されていて、緑の中にナナカマドの実の赤い点々がアクセントになっている、トンネルのような小道を自転車でゆっくり駆け抜けるのが大好きだった。
その頃住んでいたのはC団地。当時の真駒内にはいわゆる文化住宅が建ち並んでいた。団地には機械的にアルファベットがふられ、竣工した順番にA、B、Cと名づけられ、H団地まであったように思う。ベビーブームの後でもあり、団地には子どもが溢れ、団地の真ん中にあった遊園施設ではいつも誰かが遊んでいた。C団地は18棟あり、その1棟に6軒が入る長屋形式。僕が住んでいたのは16棟1号室である。ここは、遊園施設をいつも見渡せる絶好のすまいだった。

日が沈むまで野球をしていた。

小学校は団地のすぐ隣で、歩いて10分。家が近いせいか、よく忘れ物をした。給食を食べた後(休み時間)に忘れ物を取りに帰り、急に走ったせいでお腹が痛くなったことが何度もあった。
真駒内小学校は白い壁の洒落た建物だったが、まだ暖房は石炭ストーブの時代。当時、体格がよかった僕は石炭当番をよくやらされた。アルミの入れ物に石炭を入れて、石炭小屋から教室までえっちらおっちら運んだのを覚えている。
朝は朝礼が始まるまで、ほとんどの生徒がグランドで遊んでいた(当時同じクラスに渋谷智也という運動神経抜群の生徒がいた。彼は今、劇団四季の俳優になっている)。昼休みも晴れた日はグランドで、雨の日は体育館で遊んだ。教室に残っている生徒はほとんどいなかった。学校が終わるとたいていは草野球をして過ごした。野球といっても当時よくやっていたのはソフトボールの方で、毎日、暗くなるまで野球をやって、日が沈む頃になると友だちの母親が迎えに来て、一人ずついなくなっていった。僕の母も時々迎えに来てくれた。

桜山 クワガタ おっぱいアイス。

休みの日は父とC団地の裏にある桜山に行くのが楽しみだった。当時、桜山の麓には定山渓鉄道があり、札幌駅から定山渓まで小さい鉄道が走っていた。定山渓鉄道の線路を越えて桜山に上ると、山の中腹には尾根に沿うように小道があり、この小道が最高の冒険ロードになっていた。
父と一緒に、虫取り網と虫かごを持って、この道をゆっくり歩くと、蝉やクワガタ、蝶などたくさん採取できた。腐りかけた木の裏に回って、クワガタを見つけた時の感動は忘れられない。
お風呂は公衆浴場を利用していた。歩いて15分くらいかけて、商店街にある風呂に行くのである。風呂はいつも満杯で、行くと友だちもたくさん入りに来ていた。自宅の風呂に入るようになったのは、高校になって手稲に引越しをしてからである。風呂の帰り、ソーダアイスやおっぱいアイス(球体になっていて、乳首状の突起部分を食い破って内部から溶けたアイスをすするという色っぽい氷菓子)を食べながら、風呂敷に入れた桶をひっさげて行き帰りした。

冬まで鳴いたキリギリス

団地の周囲やちょっとした空き地にはキリギリスが鳴いていた。父はキリギリスを捕る名人だった。静かにキリギリスに近づくと、キリギリスの大好物であるネギをゆっくり差し出し、ネギに食いついたところでそっとキリギリスを持ち上げて捕まえる。僕が真似てもうまくいかず、結局一度も自分で捕まえられなかった。キリギリスは自宅に持ち帰って虫かごで育てるのだが、父がとてもよく世話をして、鰹節やネギを与え、秋が過ぎてストーブをたくようになるまで鳴かせていた。アリとキリギリスという話と違い、わが家ではキリギリスは冬になっても鳴いていたのである。
冬も、よく外で遊んだ。団地に住んでいたので遊び相手には事欠かなかった。放課後のスキーや雪合戦。軒先のつららに雪玉を投げて、大きなつららを競い合って落下させるということも流行っていた。今思えばけっこう危険だったと思う。危険といえば、豪雪の時期、窪地になっている定山渓鉄道の線路敷に降りてしまい、まだ小さかった僕は急な坂を上れず、そのうち暗くなって、坂を上れない僕を見捨てて友だちも帰ってしまうということがあった。心配した母が見つけてくれたからいいようなものの、あのまま放置されていたら、電車にはねられるか、凍死していたのではないだろうか。

札幌オリンピックの前と後で…。

僕は、美しい景観があり、遊び相手がたくさんいる真駒内が大好きで、とても気に入っていた。ところが、その大好きな真駒内が一変するできごとが起きた。1972年の札幌オリンピックの開催だ。定山渓鉄道のあとには地下鉄ができ、警察学校はとりこわされて五輪団地に変身してしまった。僕も小学校から中学校に進学する時期だった。遊びよりも勉強の方が気になってくる時代ということもあったかもしれない。オリンピックの前後で、僕の目に映る真駒内の風景はまったく違って見えた。
ときどき真駒内方面に行くことがあるが、当時の真駒内と今の真駒内は、まったく別の街のように僕には見えてしまう。あの頃の真駒内は自分にとって幻の街である。

2020.11.20

【1972年~】曙の光 ~僕の中学校時代~

曙の光、歓喜溢れ、今鳩が飛び立つ

僕は、高らかにシュプレヒコールの第一声を上げた。1972年真駒内曙中学校開校記念式典のことである。
僕は、真駒内小学校から真駒内中学校に進学し、2年の二学期から、新設の真駒内曙中学校に転校した。曙中学校の校舎は1972年に開催された札幌オリンピックの大会運営本部が置かれていた建物で、施設の有効利用のため、オリンピック後は中学校として利用されることが予定されていた。真駒内アイスアリーナのちょうど東向かいにある中学校だ。
当時はグランドがなく、グランドの建設予定地にはハルニレが生えていたが、結局、一本のハルニレはグランドの中心に残されている。グランドの真ん中に巨木がある中学校など全国にここだけではないだろうか。最近、この巨木にエゾモモンガが棲み着いている様子がNHKの番組で取り上げられた。何となくうれしい話だ。
転校したのは周囲に住む中学校の生徒2年生と1年生だけだったが、それまで一学年9クラスあった真駒内中学校とは違い、各学年ともクラスは5クラスしかなかったので、学年を越え全校生徒全員見覚えがある顔だった。それほど、親しかった。
何もかも一から自分たちで作っていくんだという気持ちをどの生徒も持っていた。

熱心な教諭陣NHK合唱コンクール優秀校も経験

初代校長の安藤勝夫先生は、「南の王者たれ」というスローガンを掲げ、本当に熱心に仕事をされていた。後に、お聞きした話だが、安藤校長は新設校にふさわしく、実力のある教師を集めたということであった。確かに、どの先生もやる気に満ちていた。
やる気といえば、生徒と先生のやる気が結びついていた代表格が合唱部だろう。僕は顔に似合わず(?)合唱部に入っていた。熱血指導の鈴木典子先生の指導の下、合唱部は創部2年目で、今でも合唱をする若者の目標となっているNHK合唱コンクールで地区大会優秀校(2位)になるなどめざましい活躍を遂げた。
今は男子が集まらないため、中学校では女声合唱が多いようであるが、当時は、混声合唱であった。クラス、学年、男女の枠を超えて、いろいろな仲間ができた。憧れの女子生徒とも内心の恋心を隠しつつ、楽しく話ができた。そして、それだけで幸せだったのである。

「私を男にしてください」選挙の決め台詞で初代生徒会会長に

私は、新設校に入ったという高揚感から、生徒会設立準備委員会委員長となり、さらに、初代の生徒会会長を決める役員選挙に立候補した。Y君という有力候補者との選挙となった。一生懸命ポスターと立会演説会の原稿を自分で作り、予行練習をして演説をした。この演説で「私を男にしてください」という下りが気に入ってもらえたのか、下級生の票を多く獲得でき、見事当選、1年間生徒会長を務めることとなった。
生徒会役員会は、他に副会長2名、書記2名、会計1名の総勢6名であったが、役職名に関わらず、生徒会の設立準備のため、一体になって、放課後遅くまで生徒会の仕事をしていた。昼休み時間も生徒会室に詰めるくらいの熱の入れようだった。
生徒会の指導は、奈良公雄先生(生徒会役員会では、「ナラセン」と呼んでいた。)であった。奈良公雄先生には、生徒会会長としての挨拶の仕方、挨拶文のチェック、言動などいろいろなことを指導していただいた。今、北大ロースクールの非常勤講師や修習生の指導を経験し、身に沁みて分かるのだが、教師の仕事をしながら、生徒会の指導を担当するということは本当に大変だったのではないかと思う。
生徒総会の準備で土曜日の午後も居残りで役員会全員で作業をしていたある日、奈良先生と一緒にラーメンを食べに行ったことがある。先生はみんなにラーメンをおごってくれたが「食欲がわかない」と言って自分はお子様ラーメンを頼んでいたのを覚えている。
奈良先生とは中学校卒業間近になって、こちらもそれなりに成長してくるとかなり大人の議論もしていたように思う。そういう会話を先生とできたことは、僕にとって本当に貴重なことだったように思う。

テレビドラマのような真駒内曙中学校時代

生徒会活動では、いろいろな人の意見を聞き、それを集約し、方針を決めたら、それを実践していく。そして、それが達成されていくという貴重な、今ではあり得ない成功体験をすることができた。
ノスタルジックな思いが記憶を美化しているかもしれないが、周囲の人々と意思疎通ができ、それを達成する喜びを分かち合えたのは確かだ。それが曙中学校時代だった。高校、大学、社会人となってしまうと、さまざまな人間が入り乱れ、簡単には物事は決まらない。僕にとって、まさしく真駒内曙中学校の1年半は、テレビドラマや学園漫画に出てくるような現実にはあり得ない夢のような世界だった。

2020.11.20

【1975年~】堅忍不抜 ~札南の青春~

札幌南校を選択した動機は単純だった

僕が札幌南高校に進学を決めたのは極めて単純だった。「札幌で一番の進学校」であると言うだけであった。だから南高の校風がどのようなもので、どのような教育がなされているのかについては全くの無知であった。

鮮烈!対面式での洗礼

入学後2年生3年生との対面式があったが、野次と怒号の中、いきなり先輩の一部から1年生に生卵が投げつけられるという洗礼を受けた。
今でもなぜ野次と怒号が生じ、生卵だったのかわからない。
全校集会も常識を超えていた。まずクラス毎の整列というものがない。生徒は、三々五々体育館に集合して、無秩序にたたずんで、校長先生の話を聞くのである。

学習はあくまで自主的に

進学校なのだから、さぞや先生方の授業は素晴らしいのだろうと思っていたのだが、大変失礼なのだが、本当に役立つ授業は少なかったように思う。
僕の勉強法は中学時代から、授業中心主義であったから、これには面食らってしまった。
南高では授業中、昼行燈のようにボーっとしていたり、居眠りしているやつ程テストの成績が良かったり。そういうやつらは自宅で死ぬほど勉強していたようだ。1年生ながら3年生の校内模試を受けてベストテンに入るという猛者もいた。

生徒会活動をするのは物好きのすることだ

当時南高校には、学園紛争の名残で生徒会長も何代にもわたって空白だった。その代わり「会長代行」という制度があり、自治委員会で選任された者が会長代行をしていた。前号でも書いたが、中学時代の生徒会の栄光が忘れられなかった私は、1年の後期に会長代行に立候補し、2年の前期には正式に会長に立候補したのである。そして対抗馬が出ず無投票当選した。
当時、南高で生徒会活動をすることは「物好き」がやることだったのだ。周囲の生徒は何年かぶりで会長に立候補した私をあきれ顔で見ていたし、学校新聞は愚鈍な者として、私を表現していた。

「風月」と傷ついた学校祭

生徒会長になった僕は生徒会学校祭の準備に追われた。夏休みは連日学校に夜遅くまで詰めて準備をしていたのだが、その時食べていたのが「風月」の焼きそばとお好み焼きである。
当時「風月」は本当に小さいお店で、数十年後これほど大きくチェーン展開して行くとは思いもよらなかった。家に戻りさらにご飯を食べていたから、体重が増えに増え110キログラムまでなっていた。
そして学校祭。一生懸命準備して臨んだが、悲しいことがあった。
後夜祭の時、ファイヤーストームの前に、火文字に点火しようとしたところ、担当の先生が灯油ではなく、揮発性の高いガソリンを塗っていたため点火しなかったのだ。生徒から容赦なく、「今年の執行部は何をやっているんだ」と野次られたのだ。
その時はどんなに一生懸命やっても報われないことがあるのだとつくづく思った。
会長の任期が終了した2学期末テストでは成績順位も、入学時30番位だったのに400番台(450人中)になり、生徒会長に立候補したことをひどく後悔した。
3年に進学するとき、浪人を覚悟した。でも、そこからコツコツと勉強をやり直した。そしてどうにか北海道大学法学部に合格することが出来たのである。

弁護士になってみて

南高を卒業してすでに30年が経った。皮肉にも弁護士になってみて、一番役だっていることは南高で勉強したことではなく、生徒会活動の進め方、準備の仕方、議論の進め方などで苦労した経験だった。そして、何より生徒会活動で味わった挫折感は人間としての修養として欠かせないものだったといえよう。
もし、生徒会活動をしていなかったら、もっと別のタイプの弁護士になっていたと思う。

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